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第1章/黎明期から戦前・戦中まで
アイスホッケーはカナダを起源として北米、ヨーロッパへと広がっていきました。日本にも20世紀には伝わってきました。
「アイスホッケー」の文字を目に触れるのは1915年に奉天(中華人民共和国瀋陽市に相当する都市)で開催された「第1回満州氷上運動会」でスピード競技とともに、アイスホッケー競技が行われたという記録でした。
同年1月に平沼亮三氏がアイスホッケーの防具を輸入し、長野・諏訪湖スケート協会に寄贈しました。それをきっかけに、河久保子朗氏、田中稲実氏らが諏訪湖で初めてアイスホッケーをプレーしたと記録されています。
8年後の1923年には北海道帝国大学(現・北海道大学)の本科と予科の学生による日本で初めてアイスホッケーの試合が行われました。また、初の対抗試合は翌1924年に長野・諏訪神社秋宮で、早稲田大学対旧制松本高校(現・信州大学)、慶應義塾大学対東京帝国大学(現・東京大学)の2試合が行われました。
1924年には慶応大、早稲田大、東京帝大、日本歯科大学の4大学により「全国学生氷上競技連盟」(学連)が結成され、翌1925年1月6日から7日まで長野県の六助湖で、全国学生氷上競技連盟主催による第1回学生氷上選手権(インカレ)が開催されました。早稲田、慶応、東京帝国、松本高、日本歯科(実際は棄権)が参加し、初代大学日本一の栄冠は早稲田が手にしました。
ところで、学連は前述の通り1924年に組織されましたが、この時期は各組織が創立されています。
1920年に東京、関西、諏訪、仙台の有志により、日本最初のスケート統括団体として「日本スケート会」が結成されました。1927年には全国学生氷上競技連盟関係者によって「大日本氷上競技連盟」が結成され、第1回全日本氷上選手権が1928年1月に長野・諏訪湖で開催されました。
一方で1928年に日本スケート会は「大日本スケート連盟」を創立。1929年には大日本スケート連盟主催で第1回全日本スケート競技選手権を開催。「大日本氷上競技連盟」と「大日本スケート連盟」がお互いに「全日本選手権」を開き、2つの統括団体が結成される事態になりました。しかし、混乱は長くは続かず、1929年11月、大日本氷上競技連盟と大日本スケート連盟が合併し、「大日本スケート競技連盟」が創立されました。
そして、翌1930年1月には大日本スケート競技連盟主催でアイスホッケーの「第1回全日本選手権」が栃木・日光精銅所リンクで開催されました。慶応大、早稲田大、京城帝国大学、東京帝大AK、日光精銅所、稲門クラブ、清滝クラブ、上諏訪、東洋大学(棄権)が参加し、慶応大が優勝しました。同年には、大日本スケート競技連盟が国際スケート連盟(ISU)および国際アイスホッケー連盟(IIHF)へ加盟しました。翌1931年4月1日には大日本体育協会にも加盟しました。その後、1942年に大日本体育協会は、名称の変更や部会制度など行い大日本体育会となったことに伴い、大日本スケート競技連盟は大日本体育会の組織(スケート部会)となり、大日本スケート競技連盟の組織は消滅しました。
時期は前後しますが、満州医科大学(日本)がヨーロッパ遠征で、1930年の世界選手権に参加しました。1月31日から2月10日までフランス・シャモニーで開かれた同大会で、日本は、ポーランドに0-5で敗れ、白星は挙げられませんでしたが、世界選手権初参加というその後の世界各国との交流にもつながる大きな一歩を踏み出しました
1935年3月から4月にかけては初の外国チームとしてカナダ・サスカチュアンチームが来日し、東京・芝浦などで6試合、関西で1試合を行いました。翌1936年には第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季オリンピックに参加し、日本は9位タイという成績でした。
1937年6月のIOC総会で1940年の第5回冬季オリンピックは条件付きながら札幌で行われることが決まりました。しかし、第2次世界大戦の勃発などの世界情勢から1938年7月15日、夏の東京大会とともに中止・返上となりました。
1940年の札幌オリンピックが幻に終わったのと同様に、世界選手権も1939年を最後に、世界大戦のため中断になりました。国内でも1943年1月に行われた「明治神宮大会」を最後に戦争終了まで大会が開かれることはありませんでした。なお、最後の明治神宮大会は第14回全日本選手権を兼ねて行われ全満州が優勝しました。またインカレは1942年1月の第18回大会が戦前の開かれた最後の大会で明治が優勝しています。
第1版:2024年3月31日・記
- <主な参考文献>
- 「日本のスケート発達史 日本スケート連盟編」(発行:ベースボール・マガジン社)
日本アイスホッケー連盟 WEBページ「基礎知識 歴史」