第2章 戦後復興から1972札幌オリンピックまで

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第2章/戦後復興から札幌オリンピックまで

戦争中、スポーツ界は鳴りを潜めていました。アイスホッケー界も例外ではありませんでした。しかし、1945年8月15日を境にスポーツ界に復活の動きが始まりました。1946年1月に大日本体育会は日本体育協会となりました。同年には日本スケート連盟として再発足。また同年1月には全早稲田大、全慶応大、全立教大、これに日光精銅所を加えた4チームで試合が行われました。
連盟の再発足と合わせて各種大会も新たなスタートを切り始めました。1947年1月4日から6日まで戦後初のインカレ(第19回大会)が行われる運びになり、立教大が中央大を下し優勝しました。1月25日から26日まで全日本選手権(第15回大会)も復活し、王子製紙が全早稲田大を破り、優勝を成し遂げました。新しい大会としては1月25日から26日まで青森・八戸で第1回国民体育大会アイスホッケー競技会が開催されました。また、全国高校選手権(インターハイ)の第1回大会が1952年1月8日から9日まで長野・蓼科湖で開催され、苫小牧(現・苫小牧東)、今市、八戸商業、岡谷工業の4校が参加、苫小牧が初代高校日本一の称号を手にしました。

国内で各種大会が復活する一方で、連盟の国際舞台への復帰も進みました。日本体育協会が国際オリンピック委員会(IOC)へ1950年に復帰を果たすと、日本スケート連盟も同年に国際スケート連盟に再加盟、翌1951年3月9日には国際アイスホッケー連盟への再加盟も果たしました。これによって、国際舞台への道が開かれました。
1952年にはアメリカからニューヨーク・メトロポリタン・メッツが来日。1954年にはニューヨークからスリーエム、1954年にはカナダからケノラシスルスが来日し、国際交流を展開しました。そして、1957年には2月24日から3月5日までソ連・モスクワで開かれた世界選手権に参加を果たしました。日本はオーストリアに3-3と引き分けましたが、7敗1分けで最下位に終わりました。
オリンピックへの復帰は1960年のスコーバレー大会からでした。日本は予選リーグでカナダ(1-19)、スウェーデン(0-19)といった世界の強豪と対戦して連敗。7~9位リーグではフィンランドと1分1敗(6-6、2-11)、オーストラリアと2勝(13-2、11-3)の8位に終わりました。
この経験は1962年のコロラドスプリングスで行われた世界選手権Bプールに生かされました。東側諸国が大会をボイコットしたこともありましたが、日本は5戦全勝で、日本アイスホッケー史上唯一(2024年3月31日現在)となる男子日本代表のBプールでの優勝を成し遂げました。しかし、残念ながらAプール昇格は東側諸国が不参加のため、果たせませんでした。オリンピックには1964年のインスブルック大会(オーストリア)、1968年のグルノーブル大会(フランス)と連続出場を果たしました。
戦後の最初の10年は競技会を立て直し、復活・復興のために費やし、続く10年は世界選手権やオリンピックへの参加などの足場つくりに費やしました。さらに競技とは別に、世間一般の生活が豊かになるにつれ、人々の関心がスポーツに注がれるようになり、それに比例するかのように、試合会場へ多くのファンが足を運ぶようになりました。
そして、1966年4月26日、ローマで開かれたIOC総会で朗報がもたらされました。1972年札幌オリンピックの開催決定です。戦前の幻に終わった第5回札幌大会(1940年に開催予定)から約30年、冬季オリンピック開催がついに成就しました。

札幌オリンピック開催決定の前年である1965年には日本サッカーリーグがスタートし、大きな反響を呼んでいました。アイスホッケー関係者はサッカー関係者に会い、運営の仕組みなどの話を聞くなど、アイスホッケーでも長期リーグ戦構想実施へ動き始めていました。しかし、時間的余裕などがなく、1965-1966シーズンからのスタートは見送らざるを得ませんでした。
しかし、1966-1967シーズンを迎えるにあたり、「日本アイスホッケーリーグ」に関する関係者の議論は熱がこもっていました。それもそのはずです。札幌オリンピック開催が決まっていたからです。札幌オリンピックのホスト国としての強化やアイスホッケーの魅力を日本中に広めるためには、日本リーグをスタートさせることは避けては通れず、そのためにさまざまなことが議論・検討されました。そして、11月2日に関係委員会で承認され、「日本アイスホッケーリーグ」が誕生することになりました。
第1回日本リーグは岩倉組、王子製紙、福徳相互銀行、西武鉄道、古河電工の5チームが参加し、1966年11月にスタートしました。

日本リーグが誕生した5シーズン後、札幌オリンピックが1972年2月3日から13日まで開催されました。11カ国が参加して行われた札幌オリンピックは、予選を行い、勝者は決勝リーグAグループ(上位リーグ)へ、敗者は決勝リーグBグループ(下位リーグ)に回り、決勝リーグで順位を決めることになりました。日本は予選でチェコスロバキアに2-8で敗れ、下位リーグに回ることになりました。日本はスイスに3-3、ユーゴスラビアに3-2、ノルウェーに4-5、西ドイツに7-6の2勝1分1敗の下位リーグ3位、通算9位の成績でした。
順位は9位でしたが、西ドイツとの死闘などを通して札幌オリンピックは、日本におけるアイスホッケーファンを一気に増加させるなど、普及・発展に多大な影響をもたらしました。

ところで、IIHFへの日本の復帰は1951年ですが、その翌年の1952年にソ連がIIHFに加盟し、2年後の1954年の世界選手権に初出場で初優勝という鮮やかなデビューを飾りました。1956年のコルチナ・ダンペッツオオリンピックでもソ連は金メダルを達成しました。その後、1950年代後半は世界選手権とオリンピックで優勝を手にすることはできませんでしたが、1960年代になると「赤い軍団」ソ連の独壇場になりました。1963年の世界選手権で2度目の制覇を果たすと7連覇(63、65、66、67、69、70、71年)。オリンピックでも56年に金メダルを初めて手にすると、64年からは4大会連続(64、68、72、76年)金メダルを獲得しました。
ソ連の独壇場と並行するかのように「プロ・アマ問題」も大きな焦点になりました。カナダは1969年にプロ・アマ混成チームの世界選手権への参加をIIHFに提案しましたが、IOCの反対もあって、その提案は却下され、参加は認められませんでした。するとカナダは70年の世界選手権の開催を返上するとともに、70年から6年間に渡り、世界選手権に参加しませんでした。

第1版:2024年3月31日・記

<主な参考文献>
「日本のスケート発達史 日本スケート連盟編」(発行:ベースボール・マガジン社)
日本アイスホッケー連盟 WEBページ「基礎知識 歴史」
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