第3章 1972日本アイスホッケー連盟誕生から1983世界選手権Bプールまで

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第3章/日本アイスホッケー連盟誕生から83世界選手権Bプールまで

スケート競技は一般的には、「スピードスケート」「フィギュアスケート」「アイスホッケー」の3部門に分かれます。それぞれ特徴や個性があり、その起源から発展の度合いもさまざまでした。
3部門の競技を統括する国際組織もスピードとフィギュアは国際スケート連盟、アイスホッケーは国際アイスホッケー連盟(IIHF)に分かれていました。日本では日本スケート連盟が3部門を統括し、それぞれの国際組織に加盟していました。
国際的に2つの組織があるため、アイスホッケー関係者の中から「日本スケート連盟から独立しても良いのでは」という機運が醸成され始めていました。
そして、関係者は1972年の札幌オリンピックを日本スケート連盟からの分離独立の機会にしようとの思いもありました。また、日本スケート連盟も3部門を発展させるためには分離独立が最善の策であり、時期も札幌オリンピックと、前々から考えていた模様でした。その点はアイスホッケー関係者の考え方と一致していました。
分離独立の動きは札幌オリンピック後に具現化しました。1972年8月15日のアイスホッケーの全国代表者会議において、日本スケート連盟から分離し、新連盟を組織して独立することを満場一致で決議しました。そして、9月13日、日本スケート連盟は全国臨時代表委員会において満場一致でアイスホッケー部門の独立を正式に認めました。ここに日本アイスホッケー連盟(日ア連)が誕生し、日本体育協会への加盟も11月1日付で認められました。初代日ア連会長には両角政人氏が就任しました。
その後、1977年2月9日に文部大臣より財団法人が許可され、2月25日、財団法人日本アイスホッケー連盟が成立しました。

パーティーの様子
財団法人日本アイスホッケー連盟設立披露パーティーの様子

日本リーグは札幌オリンピックを契機に一段と人気が盛り上がりを見せましたが、70年代は明るい話題と暗い話題が交錯しました。札幌オリンピック終了後の1972年4月12日、第1回リーグ(1966-1967シーズン)から加盟していた福徳相互銀行が成績不振や社業の事情などを理由にチームを解散することを決め、第6回リーグ(1971-1972シーズン)をもってリーグから脱退しました。この時点で、日本リーグは岩倉、王子製紙、西武鉄道、古河電工の4チームとなってしまいました。
しかし、西武鉄道がチームを2分し、新チーム・国土計画が日本リーグに加盟し、第7回リーグ(1972-1973シーズン)から参戦することになりました。また数年前から日本リーグへ加盟の準備を進めてきた十條製紙が第9回リーグ(1974-1975シーズン)から新加盟し、日本リーグは6チーム体制となりました。
第1回リーグでは西武のみにしか外国人選手はいませんでしたが、第7回リーグで国土が、第10回リーグで王子が、外国人選手を加入させました。さらに岩倉、十條、古河にも外国人選手が加入し戦力アップを図りました。
選手のレベルアップやファンの要望に応え、回を兼ねるごとに充実してきた日本リーグは、第14回リーグ(1978-1977シーズン)からは4回戦総当たりとなり、さらなる発展が期待されました。
しかし、第14回リーグ(1979-1980)を前にした1979年5月9日、第1回と第2回のリーグの覇者で、33年の歴史を持つ岩倉の廃部が発表されました。名門・岩倉の廃部に衝撃が走りましたが、同月中には雪印へのチームぐるみで移籍が決まり、リーグ加盟も認められ、日本リーグは6チーム体制が維持されました。

国内で盛り上がりを見せる中、世界選手権Bプールの日本開催も実現しました。札幌オリンピック期間中、世界選手権Bプールの日本招致について、IIHFのジョン・F・アハーン会長と堤義明日本スケート連盟副会長(ともに当時)の会談が行われました。そして、1974年のIIHF年次総会で1975年の世界選手権Bプールの日本開催(札幌)が決定しました。
1975年3月14日から23日まで行われた1975世界選手権Bプール。1976年インスブルックオリンピックの出場権もかかっており、5位以内が出場権獲得の条件でした。
日本で初の世界選手権開催。さらに地元で戦う有利さもあり期待されました日本でしたが、2勝2分3敗の6位に終わり、この時点でインスブルックオリンピック出場権を失いました。しかし、その後、スウェーデンと東ドイツがオリンピック出場を辞退したため、日本はオリンピックへの繰り上げ出場を果たしました。
1977年の世界選手権Bプールは、3月10日から21日まで、1975年に続き2回目の日本開催(東京)となりました。カナダがこのシーズンから世界選手権Aプールに復帰したため、通常は8カ国ですが、9カ国が参加する変則大会となりました。日本が初戦から健闘し優勝争いを展開したこともあり、連日、予想を上回る観衆を集めました。特に第6戦のポーランド戦では、会場となった国立代々木競技場は3階の天井桟敷の立見席まで埋まり、12,000人を超える大観衆を集めました。大観衆を集めただけではなく、メディアの関心も高く、日本の全8試合はテレビ中継されました。日本代表はその期待に応えるべく5勝1分2敗の3位と大健闘、夢のAプール入りに近づく結果を残しました。

真駒内競技場入りう口前の混雑の様子
1975年アイスホッケー世界選手権大会Bプール 真駒内競技場入口の様子
満員の客席の様子
1975年アイスホッケー世界選手権大会Bプール 満員の観客席の様子

日本開催の2回の世界選手権の結果と同様に、1970年代から1980年代前半までの世界選手権Bプールにおける日本は、上位と下位を行ったり来たりでした。1970年以降を順位で振り返ると1970年5位、1971年6位、1972年5位、1973年5位、1974年4位、1975年6位、1976年2位、1977年3位、1978年2位、1979年6位、1981年8位(Cプール降格)、1982年1位(Cプール、Bプール昇格)、1983年5位となっています。
1976年と1978年は2位となりAプール昇格に手がかかり、世界のトップグループ入りが見えたといっても良いでしょう。その一方で、前述のインスブルックオリンピック予選を兼ねた1975年同様、オリンピック出場権をかけた1979年と1983年の大会では、期待した結果は上げられませんでした。
1980年のレークプラシッドオリンピック出場権をかけた1979年の世界選手権Bプールでは1次リーグで1勝4敗の4位となり、この時点でオリンピック出場権を失い、順位決定リーグでも2勝1敗の2位、通算6位に終わりました。その後、東ドイツ(Bプール2位)とスイス(同5位)がオリンピック出場を辞退したため、日本は繰り上げでオリンピック出場権を手にしました。
1984年のサラエボオリンピック出場権をかけた1983年の世界選手権Bプールは1977年以来3回目の日本開催(東京)になりました。日本代表は2勝2分3敗で、アメリカ、ポーランド、オーストリア、ノルウェーに続く5位に終わり、1960年のスコーバレーオリンピックから続いていたオリンピック連続出場が6でストップしました。

国内における各種大会は1970年代から1980年代前半にも誕生しています。1977年には第1回全国ちびっ子アイスホッケー大会(現・全日本少年大会)が開催されました。1981年には全国中学校大会がスタートしました。1982年にはのちに全日本女子選手権となる第1回全日本女子大会も開かれました。

世界の動きを見ますと、1970年からカナダは世界選手権Aプールに参加しませんでした。オリンピックも1972年の札幌大会、1976年のインスブルック大会は不参加でした。しかし、1977年の世界選手権Aプールに復帰しました。しかもチームはすべてNHLのプロ選手で編成していました。世界選手権Aプールに復帰したカナダでしたが、ソ連の牙城は高く、世界選手権Aプールでの金メダル獲得は1994年まで待たなければなりませんでした。
1970年代も世界を席巻したのはソ連でした。世界選手権Aプールは1970年から1983年まで13回開かれましたが(1980年は開催されず)、1978年からの5連覇を含む優勝10回、2位2回、3位1回と力を見せつけました。オリンピックも札幌とインスブルックで連覇を達成しました。
そのソ連に対抗したのがチェコスロバキアとアメリカでした。世界選手権Aプールではソ連が優勝を逃した3回はいずれもチェコスロバキアが優勝。特に76年と77年は連覇を成し遂げました。また、アメリカは「ミラクル・オン・アイス」で有名となった1980年レークプラシッドオリンピックの決勝リーグでソ連を破り、金メダルを獲得しました。
オリンピックや世界選手権においてトップ争いが繰り広げられる一方で、西側諸国の国々では二重国籍プレーヤーによる強化が顕著になり始めたのもこの時期でした。

第1版:2024年3月31日・記

<主な参考文献>
北海道新聞 1972年8月16日付、1972年9月14日付、1979年5月10日付(発行・北海道新聞社)
「日本のスケート発達史 日本スケート連盟編」(発行:ベースボール・マガジン社)
アイスホッケー・マガジン 1976-1977 No.3、1979-1980 No.1、1982-1983 No.3(発行:ベースボール・マガジン社)
日本アイスホッケー連盟 WEBページ「基礎知識 歴史」
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