第4章/オリンピック連続出場ストップ1983から長野オリンピック開催決定1991まで

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第4章/オリンピック連続出場ストップから長野オリンピック開催決定まで

1983年の世界選手権Bプールで5位に終わり、1984年のサラエボオリンピック出場権を逃した日本。新たなるスタートを切ることになりました。
日本代表の強化に直結し、アイスホッケー界の普及・発展にも大きく寄与している日本リーグ。日本リーグも大きな変革の時を迎えました。第1回リーグから第18回リーグ(1983-1984シーズン)までは各チーム2名ずつの外国人プレーヤーが認められていました。しかし、第19回リーグ(1984-1985シーズン)から外国人選手の登録が認められなくなったのです。
ところで、第1回日本リーグから第18回日本リーグまで、45人の外国人選手がプレーしました。王子製紙のスタルシノフやシャドリン、リャプキン、国土計画のオマリーらに代表されるように外国人選手は強力助っ人としてチームを引っ張っていました。彼らの出身国の内訳はカナダ、アメリカ、ソ連(当時)、チェコスロバキア(当時)、フィンランドなどの世界のトップに位置する国々。さらにナショナルチーム(ジュニア代表を含む)やNHLでプレーした経験のある選手は30人を超えており(ナショナルチームとNHLの両方の経験者はそれぞれでカウント)、日本リーグには世界のトッププレーヤーが集っていました。
さて、外国人選手抜きで迎えた第19回日本リーグ。外国人選手の不在は各チームの戦力に大きな影響は与えると思われました。しかし、第16回リーグから3連覇中の王子製紙が、最後の東京シリーズを待たずに24試合目で優勝を決め、4連覇を達成しました。結果的に外国人助っ人がいなくても王子の牙城は揺るぎませんでした。

第19回リーグで王子の牙城は変わりませんでしたが、第20回リーグからは日本リーグの勢力図が変わりました。第16回リーグから第19回リーグまでは王子の1強時代ともいえましたが、第20回リーグで国土が8年ぶりにリーグの覇権を手にすると、1998年のオリンピックが長野に決まり、日本代表強化策の一環として日系人戦選手が解禁され、さらには外国人選手が復活される第28回リーグ(1993-1994シーズン)まで9シーズンは、王子と国土の2強時代となりました。両チームの力は拮抗し、優勝争いは最後の最後までもつれました。プレーオフ制度が採用されても、両雄の激突はとどまらず、覇権を争い続けました。この2強時代の9シーズン、日本リーグの優勝は王子が5回、国土(1992-1993シーズンからコクド)が4回、レギュラーリーグとプレーオフを合わせた対戦成績は王子29勝、国土27勝、5引き分けとお互い一歩も譲らぬ戦いを繰り広げました。

サラエボオリンピックの出場権を逃した日本は、1983-1984シーズンから代表チーム強化も新たなスタートを切ることとなりました。
この時期(1983-1984シーズン~1990-1991シーズン)の日本代表は、世界選手権(タット杯を含む)においても厳しい結果が待ち受けていました。成績としては、84年タット杯6位、85年B5位、86年B8位(Cプール降格)、87年C1位(Bプール昇格)、88年タット杯2位、89年B7位、90年B7位、91年B8位(翌92年からAプールが12カ国に増えるためCプールへの降格なし)でした。
ちなみに、1979-1980シーズンから1987-1988シーズンまでの3回のオリンピックイヤー(1980、1984、1988年)には世界選手権は開催されず、1984年と1988年にはオリンピック不参加国による代替大会(タット杯)が開かれました。

またオリンピックも88年のカルガリーと92年のアルベールビルの2大会はともに出場権は獲得できませんでした。
88年のカルガリーオリンピックはその前シーズン(1986-1987シーズン)の世界選手権Cプール1位とBプール4位の国が戦うプレーオフに勝つことが出場権獲得の道でした。1987年の世界選手権はCプールが日本の戦いの場でした。ベルギー(24-0)、ブルガリア(11-2)に大勝した日本でしたが、3戦目のルーマニアにまさかの敗戦(3-5)。続くハンガリー3-1で勝ったものの、第5戦のユーゴスラビアに5-5と引き分けてしまい、Bプール復帰は厳しい立場となってしまいました。続く北朝鮮に勝利(9-0)し、最終戦(対デンマーク)に逆転優勝の望みをつなぎました。優勝には「4点差以上の勝利」が絶対条件でした。日本はその条件をクリア、6-0で勝利し奇跡の逆転優勝を飾り、Bプールへの復帰とカルガリーオリンピック出場権獲得のプレーオフ進出の切符を手にしました。
Bプール4位のフランスとのプレーオフはCプール大会終了から11日後に行われました。第1戦が4-7、第2戦は3-2と格上フランスと1勝1敗でしたが、総得失点差で2点及ばず、オリンピック出場は夢に終わりました。
92年のアルベールビルオリンピックも厳しい道のりでした。1991年世界選手権Bプールが予選を兼ね、オリンピック出場の条件は
1)フランスを除く上位2位までは自動的に出場決定
2)3位はCプールとのプレーオフ
以上となっており、3位までになることが最低条件でした。
また、この大会ではもう一つの目標もありました。翌1992年の世界選手権からAプールの枠が8カ国から12カ国に増えることになっていました。そのため、4位までに入れば、日本の悲願であるAプール入りが達成できるのでした。
オリンピック出場とAプール入りの2大目標を目指した日本。初戦のオーストリアに2-2と引き分けましたが、その後は6連敗。1分6敗の最下位に終わり、オリンピック出場とAプール昇格を勝ち取ることはできませんでした。

強化の一環としてジュニア日本代表は1982年から世界ジュニア選手権Bプールへ参加することとなりました。初参加の82年の3位を皮切りに、83年2位、84年3位、地元・札幌開催の85年も3位と常に上位に位置し、「Aプール入り近し」と期待を集めました。しかし、86年が5位に終わると、87年3位、88年と89年が4位、90年3位、91年4位と、3位から5位が定位置となり、Aプールが遠い存在になりつつありました。

女子も大きな動きが見られました。1986年のIIHF・4年次総会で開催が決まった第1回世界女子トーナメントが1987年4月21日から26日まで開催され、日本は6位に終わりました。その後、1990年には女子アイスホッケーの歴史の1ページを記す、初の世界女子選手権が3月19日から25日までカナダ・オタワで開催されました。参加国はカナダ、アメリカ、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、スイス、西ドイツ、そして日本の8カ国。日本は5戦全敗の最下位に終わりましたが、女子の強化に早期に着手し、選手たちに目標となる指針を示す必要があることを認識することができた大会となりました。

世界の中で厳しい戦いを余儀なくされていた日本。しかし、91年6月15日、朗報が飛び込んできました。イギリス・バーミンガムで行われていた国際オリンピック委員会総会で1998年の長野オリンピック開催が決定されたのでした。

第1版:2024年3月31日・記

<主な参考文献>
日本アイスホッケー年鑑 昭和60-61年 第5号、平成元年-平成2年 第9号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1985-1986 No.3、1986-1987 No.5、2000年-2001年 12・1月合併号(発行:ベースボール・マガジン社)
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