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第5章/長野オリンピック開催決定から長野オリンピックまで
1991年6月、国際オリンピック委員会総会で1998年の長野オリンピック開催決定を受け、1991-1992シーズンをスタートするに当たり、国際的な視野に立った新しい日本型アイスホッケーの確立を目指し、ジュニア強化を中心に、長期計画を日本アイスホッケー連盟は作成しました。その計画は長野オリンピックを意識した強化であったことは言うまでもありません。
1991-1992シーズンから長野オリンピックまで、新たな国際大会の実施を始め、あらゆる年代の強化合宿・試合、そして、海外遠征などが頻繁に行われました。また対象を選手だけにするのではなく、コーチやレフェリーなどを対象としたクリニックなども行われました。
過去に例を見ないほどの活動が行われました。すべてを紹介することはできませんが、一部を紹介しますと、次のようになります(順不同)。
アジアカップ、フェニックスカップジュニアトーナメント、学生選抜強化合宿、1992年世界選手権Bプール視察(日本リーグの各チームの監督が参加)、フランソワ・アレールGKクリニック、大学長野オリンピックチーム・カナダ合宿、長野プロジェクト高校生合宿、国際コーチ・シンポジュームへの参加、IIHFレフェリークリニックへの参加、長野オリンピック強化指定選手選考合宿、全日本女子選抜強化合宿、日本リーグ若手教育リーグの実施、全日本女子海外遠征、パシフィックカップ、長野カップ、オリンピックチーム(男女)強化合宿・海外遠征などです。
さらに1995年8月には、チームカナダやNHLのカルガリー・フレームの監督を務めたデイブ・キング氏が、長野リンピックの監督になることが発表されました。デイブ・キング氏が実際に日本代表の指揮を揮ったのは、1996年の第3回冬季アジア大会と1996世界選手権Bプールでした。1996-1997シーズンからはキング氏は日本代表のGMとなり、監督はビヨン・キンディング氏が就任し、長野オリンピックまで指揮を揮いました。
女子においても長野オリンピックからアイスホッケーが正式種目となり、1995-1996シーズンから行われたIIHF主催の第1回パシフィック女子選手権に参加するなど、それまで以上の強化が行われました。
長野オリンピックへ向けて代表チームに関する強化が進む一方、日本リーグも大きな変化が見られました。1994年に日ア連関係者を始め日本リーグ各チームの代表者、さらには広告代理店やマスコミ関係者などで構成された「日本アイスホッケー活性化委員会」が誕生しました。同委員会の協力などを得て、第29回日本リーグ(1994-1995シーズン)から日系外国人の採用、前後期制の導入、それらと同時に試合は週末(土日)を中心に開催することとなりました。またホームタウン以外の都市開催を増やすなどの策も講じました。日系人選手の加入に加え、第30回日本リーグから1チーム2名までの外国人選手が解禁されました。
「PLAY WITH PRIDE “NEVER QUIT”」をテーマに掲げ強化は進められましたが、世界の大きな壁が、依然として日本の行く手を塞いでいました。
男子日本代表は、1992年の世界選手権からAプールの参加国が12と増えたことにより、Bプール上位国がAプールへ昇格して迎えた1992年の世界選手権Bプールでは3位と銅メダルを獲得しました。しかし、この時をピークに93年は5位、94年は4位、95年6位、96年8位(Cプール降格)、97年Cプール4位と世界ランキングも後退してしまいました。
女子日本代表も、1990年に開催された第1回世界選手権には出場を果たしましたが、92年の第2回、94年の第3回、97年の第4回といずれもアジア地区予選で中国に敗れ、世界選手権の出場を果たすことができませんでした。
男女代表チームが世界を前に厳しい戦いを余儀なくされる中、ジュニア日本代表は歴史的1ページを飾りました。1992世界ジュニア選手権Bプールにおいて、ノルウェー、ポーランド、フランス、そして日本の4カ国が5勝2敗で並び、当該チームの勝ち点、得失点差、得失点率の結果、日本が悲願の初優勝を果たし、Aプール昇格を果たしたのでした。戦いの場がAプールとなった93世界ジュニア選手権では世界のトップから厳しい洗礼を受け、8戦全敗の最下位となり、Bプールへ逆戻りとなりました。その後、ジュニア代表にも厳しい戦いが待ち受けていました。94年と95年は7位、96年と97年が6位、そして98年は8位と最下位になりCプール降格となってしまいました。
ジュニアを含む男女代表の前には、世界の壁が立ちはだかる厳しい現実がありました。それは一朝一夕では強化が進まないことを物語っていましたが、世界情勢に大きな変化があったことも事実でした。
1989年のベルリンの壁崩壊をはじめ、東側諸国の革命や1991年のソ連の解体、さらに1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分割するなど、IIHF加盟国が短期間で40カ国から50カ国へ増大しました。ソ連の解体によりソ連を引き継いだロシア以外に、ラトビア、ベラルーシ、カザフスタンが、またチェコスロバキアを引き継いだチェコとは別にスロバキアもCプールから昇格を果たし、日本を追い越しAプールへ入りを果たしました。このように日本より実力が上とも思われる国が増えたことにより、日本のランキングが下がっていったのは偽らざる事実でした。
ところで長野オリンピックへ向け、メディアによる日本代表などへの取材がこれまで以上に活発に行われました。テレビ・新聞だけではなく、一般雑誌においてもアイスホッケーが取り上げられました。また、1975年11月に創刊された専門誌「アイスホッケー・マガジン」が、創刊当時は年3回発行でスタート。その後の年5回、6回、8回発行を経て、年間12回の月刊誌(1994年12月号から)となったのもこの時期でした。
長野オリンピックは1998年2月7日から22日まで開催されました。IOC、IIHF、NHL、NHLPA(選手会)などが合意し、NHLプレーヤーの参加が決定。そのため、カナダ、アメリカ、ロシア、チェコ、スウェーデン、フィンランドなどがNHLプレーヤーなどによるドリームチームを編成し、金メダルを巡る戦いを繰り広げました。また、1980年のレークプラシッド大会以来18年ぶりの日本の参加。そして、女子アイスホッケーの正式種目化など、世界の目が注がれたオリンピックとなりました。
男子日本代表は予選リーグで初戦のドイツに1-3と惜敗、第2戦のフランスにも2-5と敗戦、第3戦のベラルーシには2-2と引き分けたものの、白星は遠いものでした。しかし、最終戦(順位決定戦)でPS戦の末にオーストリアに勝利を挙げました。
女子日本代表は、格上相手に「1勝」を目標に臨みました。しかし、力差を埋めることはままならず、カナダに0-13、フィンランドに1-11、中国に1-6、アメリカに0-10、スウェーデン0-5と世界の壁の厚さを感じさせられました。
金メダル争いは、男子はチェコ、女子はアメリカが獲得しました。
世界最高レベルの選手によって金メダル獲得を巡り素晴らしい戦いが展開され、人々に感動を与え成功裏に終えた長野オリンピック。男女日本代表は開催国として出場を果たしました。次回のオリンピックからは実力で出場権を獲得しなければならい日本代表。その前には、まだまだ茨の道が待っていました。
第1版:2024年3月31日・記
- <主な参考文献>
- 日本アイスホッケー年鑑 平成3年-平成4年 第11号~平成9年-平成10年 第17号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1991-1992 No.5、1994年12月号、1995年10月号、1998年3月号増刊、1998年4月号(発行:ベースボール・マガジン社)