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第6章/長野オリンピック後から女子日本代表のソチオリンピック出場決定まで
長野オリンピック後のトップリーグは激動の時を迎えました。まずは98-99シーズンにそれは訪れました。73年の歴史を誇る古河電工が第33回日本リーグを最後に廃部となったのでした。日本リーグは6チーム体制の危機となりましたが、古河の後継としてクラブチームのHC日光アイスバックが誕生し、第34回日本リーグ(99-00シーズン)から加盟し、6チーム体制が維持されました。
しかし、第35回日本リーグ(2000-2001シーズン)の開幕直前に雪印がこのシーズン限りの廃部を発表しました。また、クラブチームとして立ち上げた日光アイスバックスも資金難から活動停止の危機を迎えていました。
日本リーグが4チームとなるかもしれない緊急事態となりました。雪印は後継チームとして札幌ポラリスが発足。日光アイスバックスも新会社が誕生しリーグに参戦することとなり、第36回日本リーグ(2001-2002シーズン)は6チーム体制が維持されました。
しかし、札幌ポラリスは1シーズン限りで日本リーグから姿を消し、5チーム体制となりました。さらに第1回から日本リーグに参戦し、日本リーグ優勝10回を数える西武鉄道が2002-2003シーズンの第37回日本リーグをもって活動を停止し、西武はコクドと合併することになりました。翌シーズン(2003-2004)の第38回日本リーグは4チーム体制の前後期制が採用されました。4チームでトップリーグを継続することは難しく、日本リーグは第38回が最後となりました。第38回日本リーグの前後期の間には、韓国のハルラ・ウィニアを加えた日韓5チームによるアジアリーグが誕生し、リーグを開催。日本製紙クレインズが初代チャンピオンに輝きました。アジアリーグが日本リーグに代わるトップリーグとなったのでした。
2003-2004シーズンからスタートしたアジアリーグも、加盟チームの入れ替わりが頻繁に行われました。2004-2005シーズンには中国2チーム(ハルビンとチチハル)とロシア1チーム(ゴールデン・アムール)が新たに加盟し8チーム体制に拡大。2005-2006シーズンには北欧資本のノルディック・バイキングス(本拠地は北京)と韓国のカンウォンランドが新たに加盟しましたが、ロシアのゴールデンアムールが脱退し9チーム体制で開催されることになりました。2006-2007シーズンはノルディック・バイキングスが撤退し8チームに。2007-2008シーズンでは、中国は中国シャークの1チームとなり7チームになりました。また、2008-2009シーズンをもってSEIBUプリンスラビッツ(前コクド)が廃部しましたが、翌2009-2010シーズンからは東北フリーブレイズが参戦したことで7チーム体制が維持されました。7チーム体制は2012-2013シーズンまでは続きました。
揺れ動いたトップリーグですが、ビッグニュースも飛び込んできました。2004年6月27日に行われたNHLドラフト会議で福藤豊(当時コクド)がロサンゼルス・キングスから8巡目(全体で238位)指名を受けたのでした。日本人がNHLからの指名を受けるのは1992年の三浦浩幸(当時コクド)以来2人目の快挙でした。
福藤は2007年1月13日、ロサンゼルス・キングスのGKとして、第3ピリオドからセントルイス・ブルース戦に出場し、日本人初のNHLプレーヤーとなりました。
日本代表に目を向けると、世界の列強の前に厳しい戦いが待っていました。
男子日本代表ですが、長野オリンピック終了後の1998年4月に開催された世界選手権Aプールへ出場しました。この大会は極東枠が設けられたとはいえ、長年の悲願であったAプールへの参戦となりました。極東枠は2004年の世界選手権(旧Aプール)まで設けられました。7シーズンにわたって出場した日本代表でしたが、白星を挙げることはできませんでした。98年の3敗(予選リーグ)から始まり、99年3敗(予選リーグ)、2000年6敗(予選・下位リーグともに3敗)、01年1分5敗(予選リーグ3敗、下位リーグ1分2敗)、02年6敗(予選・下位リーグともに3敗)、03年1分5敗(予選リーグ3敗、下位リーグ1分2敗)、04年2分4敗(予選リーグ3敗、下位リーグ2分1敗)と7シーズンのトータルは4分32敗に終わりました。極東枠最後の2004年も15位に終わり、ディビジョンⅠ(旧Bプール)へ降格となりました。
ディビジョンⅠでの戦いも容易ではありませんでした。ディビジョンⅠの構成が変わり、6カ国ずつの2つのグループ(AとBは上位と下位ではなく並列。A・Bの1位2カ国が旧Aプールのトップディビジョンへ昇格)に分けて行われました。2005年からの日本の成績は、05年は2勝5敗のⅠ-A5位、06年3勝2敗のⅠ-A3位、07年2勝3敗のⅠ-B3位、08年は1983年以来の日本開催(札幌)となり3勝1分1敗のⅠ-B3位、09年3勝2敗のⅠ-A3位、10年3勝2敗のⅠ-A3位。旧Aプールのトップディビジョンが16カ国、旧Bプール相当のディビジョンⅠが並列の2グループで、最上位になったのが3位と言うことは実質5、6番目にあたり、ランキング的には21位前後となっていました。2011年は東日本大震災のため世界選手権ディビジョンⅠに参加できませんでした。
2012年から世界選手権のフォーマットが変わり、ディビジョンⅠのAとBは並列ではなく、上位と下位に分けられました。12年は1-Aに参加し、2勝3敗の4位でⅠ-Aにとどまることができましたが、この後は上位進出ではなく残留を巡る戦いとなってしまいました。
世界選手権で厳しい戦いが続く男子日本代表。世界選手権トップディビジョン入りを果たす以上に出場することが厳しいオリンピックは、出場の扉を開けることはできませんでした。
2002年ソルトレークオリンピック予選は2000年2月に行われた1次予選において、2戦2勝同士の対決となったデンマークに3-7で敗れまさかの敗退。2006年のトリノオリンピックも2005年の最終予選で世界との力差を見せつけられ3戦全敗でオリンピック行きの切符を手にすることはできませんでした。2010年バンクーバーオリンピックも2009年2月にドイツで行われた最終予選に進出はしたもののスロベニアには引き分けましたが、ドイツとオーストリアに敗れ、出場権獲得はなりませんでした。2014年ソチオリンピックの予選でも2012年11月に日光で行われた1次予選まさかの敗退と、オリンピックへの道は厳しいものとなりました。
女子日本代表は長野オリンピックの経験を糧に、トップディビジョンへの戦いを展開し、AプールとBプールの昇格と降格を繰り返しました。なお2001年から世界選手権は名称が変わり、Bプールは世界選手権ディビジョンⅠ、Aプールは世界選手権となりました。
99年はBプールが戦いの場でしたが、予選を3戦全勝でトップ通過し、続く準決勝・決勝にも勝利し、見事に優勝を飾るとともに、Aプールへの昇格を決めました。2000年の世界選手権Aプールは6位以内に入れば2002年のソルトレークシティーオリンピックの出場権を獲得することも可能でした。しかし、1次リーグは3連敗、5-8位戦でも2連敗と8位に終わり、Bプールへ降格となりました。トップディビジョン(旧Aプール)への昇格を目指した01年は決勝でスイスに敗れ(1-2)、2位に終わり昇格は持ち越しました。03年は5戦全勝で優勝とトップディビジョン復帰を成し遂げました。04年は予選リーグ並びに3位リーグでも白星は上げることはできず最下位に終わりディビジョンⅠへ降格。05年は2位に終わりディビジョンⅠ残留となりました。06年はオリンピックイヤーのため世界選手権は開催されませんでした。07年のディビジョンⅠは日光での開催となり、5戦全勝でトップディビジョン復帰を果たしました。08年は7位で残留したものの、09年は8位に終わりディビジョンⅠへ降格。2010年もオリンピックイヤーのため世界選手権はなく、11年は男子同様、東日本大震災のため不参加となりました。12年は3年ぶりの世界選手権ディビジョンⅠの参加となりましたが、3勝2敗の3位に終わりました。
女子日本代表は世界選手権ではトップディビジョン入りを果たすなど、世界のトップディビジョン定着も視野に入っていたものの、オリンピックとなると、その切符を手にすることはままなりませんでした。
ソルトレークシティーオリンピック出場権をかけた最終予選は2001年2月に行われました。上位2カ国になれば出場権が獲得できましたが、2分1敗の3位に終わり、オリンピックの切符は逃しました。2004年11月に開かれたトリノオリンピック最終予選でもチェコに勝ったものの、ロシアに2-3と1点に泣き、トリノオリンピック出場は果たせませんでした。2010年のバンクーバーオリンピックも2008年11月に中国で行われた最終戦で中国に敗れ涙を飲みました。
オリンピック行きの切符を手にすることができなかった女子日本代表。しかし、ついに歓喜の時を迎えます。
2013年2月7日から10日まで、スロバキアで行われたソチオリンピック女子最終予選において、初戦のノルウェーに4-3、第2戦のスロバキアに1-0と接戦を制して、オリンピック出場に王手をかけました。迎えた第3戦のデンマークに5-0と完勝し、ソチオリンピック行きの切符を獲得したのでした。
第1版:2024年3月31日・記
- <主な参考文献>
- 日本アイスホッケー年鑑 平成10年-平成11年 第18号~平成14年-平成15年 第22号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1992-1993No.1、1999年5月号、2000年4&5月号、2000年6&7月号、2001年4&5月号、2003年6&7月号、2003年11月号、2004年7&8月号、2004年10月号、2005年3月号、2005年4月号(発行:ベースボール・マガジン社)
日本アイスホッケー連盟 WEBページ「基礎知識 歴史」