レジェンド・インタビュー_Vol.2 堤 義明 「日本アイスホッケー界の牽引者」

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レジェンド・インタビュー_Vol.2 堤義明_日本アイスホッケー界の牽引者

堤義明日本アイスホッケー連盟終身名誉会長

1972年9月に日本アイスホッケー連盟は、日本スケート連盟から分離・独立し誕生。2023年7月8日には創立50周年を祝うパーティーが開催された。席上、功労者の表彰などが行われ、堤義明氏は日本アイスホッケー連盟終身名誉会長に就いた。
堤氏は、両角政人初代会長から引き継ぎ、1973年に第2代日本アイスホッケー連盟会長に就任。以後、2003年に会長職を退くまでの会長在任中には、長野オリンピックや世界選手権(Bプール)を日本で3回開催するなど日本のアイスホッケー界を牽引。また1972年に日本アイスホッケー連盟が日本スケート連盟から分離・独立する前の日本スケート連盟時代においても札幌オリンピックの招致・開催や日本リーグの誕生などにも手腕を振るった。
日本のアイスホッケー界の普及・発展に寄与してきた堤氏に話を伺った。

※このインタビューは2024年10月27日に実施しました。
取材協力:星野好男/写真撮影:山本倫子

<主な参考文献>
「日本のスケート発達史 日本スケート連盟編」(発行:ベースボール・マガジン社)
アイスホッケー・マガジン 1992-1993 No.3、1994年12月号(発行:ベースボール・マガジン社)

アイスホッケーとの関わりは札幌オリンピックがきっかけ

日本オリンピック委員会(JOC)を始め、日本アイスホッケー連盟、日本スケート連盟、日本スキー連盟などの役職(会長を含む)を務め、長きにわたりウインタースポーツに関わってきた堤義明日本アイスホッケー連盟終身名誉会長(以下、堤名誉会長)。スケートやアイスホッケーと関わることになったその原点は……。

Q:アイスホッケーに携わるきっかけからお聞かせください。

堤名誉会長:軽井沢にスケートリンクをつくる際、竹田恒憲日本スケート連盟会長(当時)のところへ相談に伺ったのです。それがきっかけで竹田さんと知り合いになり、「手伝ってくれないか」といわれて日本スケート連盟に入ったわけです。それが日本スケート連盟との関わりです。それから日本スケート連盟の中にずっといて、国際アイスホッケー連盟(IIHF)との関係の話が出てきたときにつながっていきます。

札幌オリンピックは1972年2月3日から13日にまでの11日間にわたり開催された。
札幌でのオリンピック開催には紆余曲折の歴史があり、1972年の開催は「3度目の正直」の末であった。その歴史を紐解くと……。
1度目は、戦前の1940年に東京オリンピック(夏季大会)とともに札幌で開催されることが決まっていた。しかし、国際情勢(第2次世界大戦)などで返上せざるを得なかった。
2度目は、1968年(第10回大会)の開催をめざし名乗りを挙げ、招致運動を進めた。しかし、1964年のIOC(国際オリンピック委員会)総会での開催地決定投票で、グルノーブル(フランス)などに敗れた。
そして、1972年(第11回大会)が3度目である。1966年のIOC総会で行われた開催地決定投票の結果、ブランデージIOC会長(当時)から「SAPPORO」と宣言され、札幌オリンピック開催が決まった
オリンピックの開催が決定したことによって競技施設の建設や競技の強化などが進められた。アイスホッケー会場として真駒内屋内スケート場(現・真駒内セキスイハイムアイスアリーナ)と月寒屋内スケート場(現・札幌市月寒体育館)が整備された。
また、札幌オリンピック開催決定の同じ年の11月に日本リーグがスタート。選手強化やアイスホッケーの普及、オリンピック・ムードを高める役割なども担った。

Q:アイスホッケーに本格的に関わるのは札幌オリンピックからになりますか?

堤名誉会長:札幌オリンピックがきっかけになりアイスホッケーに関わることになりましたね。それまでは正直なところ、アイスホッケーにあまり興味はありませんでしたよ。
当時の冬季オリンピックで「日本! 日本!」といって応援する競技は、アイスホッケーぐらいしかありませんでした。
日本スケート連盟にいましたが、「これは大変だ」と思いましたね。チームスポーツが勝つと、盛り上がりが違いますからね。日本で開催するオリンピックですので、「アイスホッケーが強くならないと」と思いました。

2026年のミラノ・コルティナダンペッツォオリンピックは8競技116種目が行われる。1972年の札幌オリンピックは6競技35種目。札幌の時の団体競技はアイスホッケーのみ。種目としてはクロスカントリーの男女リレー、バイアスロンの男子リレーが団体戦だった。ミラノ・コルティナオリンピックでは競技だけでも、男女アイスホッケー、男女カーリングは団体競技、種目でも札幌オリンピックとは比較できないくらい数多くの団体戦が行われる。

ところで、日本ではスピード、フィギュア、アイスホッケーのスケート競技3部門を戦前では「大日本スケート連盟」が統括してきた。戦後も日本スケート連盟が3部門を統括してきた。
一方、世界に目を向けると、スピードとフィギュアは国際スケート連盟が、アイスホッケーはIIHFが世界各国の競技団体を統括している。日本スケート連盟は戦後、1950年に国際スケート連盟に、1951年にIIHFに復帰し、国内における普及・発展を続けるとともに、オリンピックや世界選手権に代表選手を派遣してきた。
同じスケートといっても個人競技と団体競技といった違いがある。さらにアイスホッケーにはIIHFという独立した統括団体があり、日本スケート連盟から分離・独立しても良いのではないかといった声が少なからず聞こえていた。
その機運が見え始めたのが、日本リーグがスタートして2、3年後の頃であった。そして、札幌オリンピックが分離・独立への最終的なトリガーとなったのはいうまでもない。

Q:日本スケート連盟から分離・独立して、日本アイスホッケー連盟誕生となった経緯などをお聞かせください?

堤名誉会長:日本では日本スケート連盟の中にスピードスケート、フィギュアスケート、アイスホッケーの3部門があったわけです。しかし、上部団体は、(スピードとフィギュアの)国際スケート連盟と、(アイスホッケーの)IIHFに分かれています。3部門がぶら下がっている状態の統括組織に入ってこられても上部団体は困るわけですよ。IIHFからも分離してくれという話が来たのです。それで、参議院議員で北海道アイスホッケー連盟会長であった西田信一さんと私は仲が良かったので、2人で協力して、日本スケート連盟からの分離を進めたわけです。
当初、日本スケート連盟内は分離・独立には猛反対でした。全体を考えれば、組織が小さくなりますからね。
アイスホッケーの担当理事は自分たちだけで、それほど多くはありませんでした。発言力も自分たちだけで、もっと自由にやりたかったですからね。アイスホッケー部門には分離・独立に反対する人はいませんでした。一方、日本スケート連盟とすれば、出て行ってしまうと……。そのような状態であり、流れでした。
西田さんと私とで、みんなのことを説得し、札幌オリンピックを契機に分離・独立することができました。

パーティーの様子
財団法人日本アイスホッケー連盟設立披露パーティーの様子

世界選手権の日本開催によってより盛んに

1965年春に開幕し大きな反響を呼んだ「日本サッカーリーグ」。これを受け、アイスホッケー界も「日本リーグ発足」に動き出したものの、時間的余裕がなく1965-1966シーズンの立ち上げは見送りとなった。
しかし、すぐに日本リーグ発足に拍車がかかった。札幌オリンピック開催決定である。日本リーグを実現させることによって「実業団チームが切磋琢磨し、競技力の強化」「白熱したゲームを行い魅力を知らしめる」「オリンピックへの機運を醸成する」などの不可避の課題の実現につながるのは明白であった。
1966-1967シーズンを控えた夏の時期から、参加予定チームのオーナーはもちろんのこと、各チームの関係者や連盟関係者(当時は日本スケート連盟のアイスホッケー関係者)が集まり、日本リーグ発足へ向け具体的な動きが進められた。そして、11月、日本スケート連盟の承認を得て、日本リーグ開催が決まった。
参加チームは王子製紙、岩倉組、古河電工、福徳相互銀行、西武鉄道(旧・品川クラブ)の5チーム。記念すべき開幕戦は、11月15日、品川スケートセンターで約1,500人の観衆を集め、王子対古河の間で行われた。

Q:日本リーグ誕生の経緯などをお聞かせください?

堤名誉会長:オリンピックが行われるということで、日本リーグが誕生しました。私のところ(西武鉄道)でもチームをつくって参加することにしました。しかし、東京ですから、選手を集めるのが大変でした。クラブチームの「品川クラブ」を軸にして、大学のトッププレーヤーを入れて、「西武鉄道」チームを立ち上げてスタートしました。大学のトッププレーヤーが加入してくれたので、格好がつきましたね。

1960年代後半から1970年代前半にかけて、前述のように、札幌オリンピックの招致・開催、日本リーグの発足、日本アイスホッケー連盟の誕生など、日本のアイスホッケー界には大きな波が押し寄せていた。そして、その波に乗り札幌オリンピックを契機にアイスホッケーの人気は一段と盛り上がった。
日本リーグも年々、試合数が増えた。また日本代表の強化策の一環として、各種国際大会も開かれ、1975年には札幌で、1977年には東京で世界選手権(Bプール)も開催した。

一方、世界に目を向けると……。ソ連が世界選手権には1954年、オリンピックにも1956年に初参加。両大会とも初参加ながら金メダルを獲得した。その後、1960年代に入るとソ連の独壇場。オリンピックでは1964年のインスブルック大会から4連覇。世界選手権では1963年からは7連覇を含め79年までで優勝を逃したのはわずか3回であった。その一方で、1970年から1976年まではカナダが世界選手権に不参加。プロ選手の参加が認められなかったことに対する反発であった。オリンピックも1972年札幌、1976年インスブルックには不参加であった。

Q:日本リーグと並行するようにアイスホッケー人気は高まったと思いますが、どう感じられていました?

堤名誉会長:日本でも、やっぱり札幌オリンピックでトッププレーヤーのプレーを見て、アイスホッケーが盛んになってくるという一つのきっかけには確かになりましたね。
ところで、世界選手権のトップディビジョン(旧Aプール)が、6チームの時もあったのですよね。その後、(1970年代半ばになると)トップディビジョンが8チーム構成になり、日本もそれなりの上位に進むところにいたのです。
その頃、アイスホッケーそのものが世界的に見ても盛んにやっている国が限定されていました。その後、爆発的にアイスホッケーが世界中で人気が出て、ヨーロッパの西側諸国のどの国でも、強化に力を入れて盛んになっていきました。その後のアイスホッケーの普及というのはものすごく急だったのです。

世界選手権(トップディビジョン)の参加国数の歴史を振り返ると、第1回世界選手権は1920年のアントワープオリンピック(ベルギー)が兼ねて行われた。この時、まだ冬季オリンピックはなく、アイスホッケーとフィギュアスケートは夏季大会のアントワープオリンピックで実施された。アイスホッケーの参加国は7カ国であった。冬季オリンピックは1924年のシャモニー(フランス)が第1回大会。シャモニーと1928年のサンモリッツ(スイス)の両オリンピックも世界選手権を兼ねて開催された。世界選手権が単独で開かれたのは1930年。この時は初参加の日本も含め12カ国が参加した。当初はまだトップディビジョンのみの開催であった。戦前は大会ごとにばらつきがあり4カ国から15カ国が参加(世界選手権を兼ねたオリンピックを含む)。戦後も大会ごとに参加国が4カ国から16カ国とばらつきがあった(オリンピックを除く)。
当初はトップディビジョンだけであったが、1966年からトップディビジョンの下にBプールができ(その後CプールやDプールも創設)、1969年から1975年まではトップディビジョンは6カ国に定着した(1961年から1967年までは8カ国)。その後、1976年から1991年までは8カ国、1992年から1997年までは12カ国、1998年から現在の16カ国となった。

Q:1975年、1977年に日本でBプールの世界選手権を開催しましたが、何がなんでも「招致しよう」と動かれたのですか?

堤名誉会長:大会の招致合戦はあまりありません。「日本でやってくれませんか」「はい。やりましょう」という感じでした。
日本に限らず、当時は世界選手権を開催しても、簡単に儲かるわけではありません。どちらかというと出費の方が多いことも少なくありませんから、開催を積極的に希望する国があまりないのです。それで持ち回りじゃないですけど、日本に行こうで、開いたわけです。

Q:日本開催の1975年と1977年の世界選手権には多くのファンが駆けつけました。特に1977年の東京大会の日本対ポーランド戦では国立代々木競技場に1万2,000人の大観衆が入るなど、それこそ大盛況だったわけですが。

堤名誉会長:大きな黒字にはなっていないです。入場料くらいしかメインの収入がありません。放映権料も現在のように高額ではありません。それだけ(お客さんが)入っても大幅黒字には…。来日する各国が負担する部分もありますけど、滞在・交通費などがかかります。またリンクの使用料や仮設スタントの建設費などで、入場料ぐらいはなくなりますから。
でも開催したことによって、アイスホッケーはだんだん知られてきましたね。また盛んになってきましたね。

1975年の札幌での世界選手権は日本で初めての開催。その招致は札幌オリンピックまで遡る。当時、日本スケート連盟副会長であった堤氏とジョン・F・アハーンIIHF会長が会談し、日本開催の流れができた。そして1974年のIIHF年次総会で日本開催が決定した。
日本での開催は決まったものの、参加国は往復旅費や滞在費の全額負担を日本に迫った。運営面では支出増となるが、入場料、放映権料、広告料で賄うこととなった。大会規模は1億4,000万円を超えた。
大会結果は、日本は3位を目標にしていたが6位に終わり、この時点でインスブルックオリンピック出場権を逃した。その後、スウェーデン、東ドイツが出場辞退し、日本は繰り上げ出場を果たした。
大会収支は赤字にはならず黒字を生んだ。特に入場料売り上げが1億円を超えたことが大きかった。
札幌大会から2年後、1977年には東京で世界選手権を開催。12日間の大会で約8万人を動員した。入場場料収入は関係者の予想を超え1億6,000万円余りとなった。その他、広告収入や放映権料などの収入があり、1,200万円の黒字興行となった。
ちなみに1977年頃の大卒初任給はおよそ10万円、2023年の価値に換算すると約16万円から18万円であった。

試合会場から退場する人々
真駒内屋内競技場には連日多くの観客が詰めかけた
超満員の試合会場
真駒内屋内競技場は超満員

日本と世界との壁は体力の問題

日本の国際交流の歴史は古い。戦前では1935年にカナダのサスカトーンチームが来日して日本代表などと試合を行った。戦後では1952年にニューヨーク・メトロポリタン・メッツが来日し日本代表などと対戦。この他にも多くの国やチームが来日している。
また、外国のチーム同士の対戦も行われ、ボビー・ハルが所属するウイニペグ・ジェッツとソ連代表の試合。さらに1980年代後半にはソ連代表やチェコ代表、スウェーデン代表を招いて試合を行ったりもしている。

Q:多くの外国チームが来日し、試合を行っていますが、外国チームの思い出などをお聞かせください。

堤名誉会長:ソ連のチェスカが来日した時、日本選手はチェスカの選手に全然、触れなかった。大人と小学生くらいのレベル差があったのではないですかね。
チェスカのプレーを見てびっくりしました。パスは氷上を滑ってくると思っていたら、空中を飛んでパスが来るわけです。それは覚えていますね。

チェスカが来日したのは1968年。日本代表と4試合、日本リーグの単独チームと3試合(王子、岩倉、西武)、計7試合を行いチェスカの7戦7勝。しかも全試合10点以上の得点(1試合最多得点は27点)を奪う力差を見せつけた。
世界選手権の日本開催、国際試合などを行い、日本代表を強化。その結果、1970年代後半には、世界選手権Bグループで2位(1976年と1978年)になるなど、Aグループ入りまであと一歩まで迫ったこともあった。

Q:日本代表を世界の中でどのようなポジションにしたかったなどの思いはありましたか。例えばオリンピックで3位以上をめざすとか、世界のトップ8に常に位置したいとか、具体的な目標はありましたか?

堤名誉会長:かなり無理なことは分かっていましたけど、やっぱり当事者としてはなんとか強くしたいわけです。
そのためにまず外国人選手を入れることを考えました。来日する外国人選手の全てがトッププレーヤーではありません。しかし一流選手以外でも日本人から見れば桁外れの実力者もいます。そういう選手が入ってくることによって技術が伝わるわけです。
西武とコクドはカナダから(国土計画時代はフィンランドもあり)、王子製紙と十條製紙はソ連の選手が来て、ある時期はすごく良かったのです。良かったのですが、世界選手権やオリンピック予選に行った時ですね。日本代表には外国人は入れません。外国人がチームにいる時は、パワープレーやキルプレーなど重要な場面はほとんど外国人が中心に戦っているわけです。外国人がいなくなると、ナショナルチームで日本のトッププレーヤー同士が組んでも、思うようにうまくできないのですね。その結果、代表強化のためには日本リーグに外国人がいない方が良いのではないかということから、外国人を辞める時代があったわけです。
また当時、世界選手権で対戦する西側諸国のチームのベンチへ行ったら、選手はみんな英語で話しているわけです。その国の言葉を話している選手はほとんどいなくて、多くがカナダ人。二重国籍です。簡単に国籍が取れるのです。日本ではなかなかそれはできません。

時代は飛びますが、長野オリンピックの時はどうしても勝ちたいから、長野対策としてカナダに行ってスカウトして日系人を集めてきて、代表に加えたわけです。
外国人と比較すると体力差はありますが、やっぱり向こうで育った選手は違いますよね。若林兄弟(メル・ハービー)でも分かるように、サイズは小さくてもそれなりにやれました。でもNHLには入れません。
例えば、星野(好男)ですが、日本では強かったのに、ドラフトされていません。一番大きな壁は体力の問題ですよね。日本だと星野は大きい方ですけど、外国に行くと普通以下なのですよ。
アイスホッケーなど一部のスポーツぐらいだけですよね。スポーツで真正面からぶつかる「ボディチェック」というルールがあるのが。これはもう正面衝突すれば絶対に大きい方が勝ちますよ。そのハンデキャップは、まあ永久に抜けられないというか……。
野球選手は大勢メジャーでやっていますけど、アイスホッケーはメジャー(NHL)でやったのは福藤(豊)だけです。

日本リーグでは発足当時から外国人選手の門戸を開いていた。彼らは各チームの主力として活躍していた。
しかし、第19回日本リーグ(1984-1985シーズン)から外国人選手の登録は認められず、日本リーグのチームから外国人選手は姿を消した。
月日は流れ、1991年のIOC総会で1998年に長野でオリンピックが開催されることが決まると、外国人選手が復活した。第29回日本リーグ(1994-1995シーズン)からは日系人選手が、第30回日本リーグ(1995-1996シーズン)からは外国人選手が解禁された。

世界選手権における成績を二重国籍の選手が左右し始めたのは1970年代後半から。特に日本が主戦場としていたBプールは顕著であった。イタリア、フランス、デンマーク、オランダなど西側諸国は二重国籍のカナディアンを代表入りさせ、超短期間での強化策を進めた。その結果、89年の世界選手権では日本と東ドイツ以外は全て二重国籍選手がいるといわれるほどであった。また、Cプールから昇格してきた国がBプールで優勝して、Aプールへ昇格してしまうことも珍しいことではなかった。

ところで、1970年代後半から多くの国で行われた二重国籍選手だが、その歴史は古い。戦前の1936年のガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックでも物議を醸した。オリンピック3連覇中のカナダが決勝ラウンドでイギリスに1-2で敗れる波乱。金メダルはイギリスが獲得した。だが、イギリスにはカナディアン選手が参加していたのであった。

西武対国土戦はつまらない???

1966年にスタートした日本リーグ。代表強化の一翼を担うだけではなく、日本のアイスホッケー界の中心的役割ともなった。ファンの関心も高く、日本リーグ自体、毎年、右肩上がりの盛り上がりを見せた。
その一方で、チームの撤退などもあった。福徳相互銀行、岩倉、古河電工、雪印、西武鉄道の5チームが38年間の日本リーグの歴史の中で撤退していった。ちなみに、SEIBUプリンスラビッツ、日本製紙クレインズの撤退はアジアリーグになってからのこと。

Q:最初、日本リーグは5チームでスタートしましたが、最初の頃、リーグとして盛り上げる方法は?

堤名誉会長:元々、苫小牧や日光などにチームがあったわけです。チームがあるので、自然とリーグ戦をやろうということで始まったわけですね。
北海道ではものすごい人気がありましたね。それから、東京ではやっぱり大学リーグがあって、それなりの人気がありました。

Q:日本リーグがトップリーグとして盛り上がりを見せる一方で、チームが撤退するという厳しい現実もありましたが……。

堤名誉会長:最初に福徳相互銀行が日本リーグから下りたのは、経済的な理由でチームを持ちきれませんでした。
恥ずかしい話ですけど、西武とコクドの2チームありましたが、先に西武がチームを持ちきれなくなったわけですね。
ゴルフ場やスキー場も最初のうち良かったのですけど、それが競争相手がすごくたくさんできて赤字になっていったわけですね。そういうことが原因で、コクドも経済的な理由でチームを持ちきれなくなりました。みんな会社の経済的な理由です。

福徳相互銀行の撤退の時は西武鉄道から分離した国土計画が参加し5チーム体制が維持された。その後、十條製紙が加盟し6チーム体制となった。岩倉が撤退した時には雪印が引き継いだ。時代は流れ、古河電工の撤退の時は、クラブチームで日光アイスバックスが立ち上がった。企業にとっても厳しい環境下であったが、引き継ぐチーム(会社)があった。
アイスホッケーに限らず、企業チームは、チームの存続は会社の業績と関連してくる。

フェイスオフの様子
雪印フィガルーチ選手と古河ガルドン選手のフェイスオフ
試合中のゴール付近
十條製紙対古河電工の様子(古河GK後藤日出男選手)
試合後の握手の様子
古河電工対王子製紙 古河ホーム最終戦後に両チームが握手 

Q:経済的理由でチームが離れ辞めていくっていう流れはあって、代わりのチーム(会社)がありました。日本リーグを6チーム体制からもっと拡大するような動きはなかったのですか?

堤名誉会長:日本経済全体が下がっていました。
プロ化みたいな話もありましたけど、財力を考えるとなかなかやっぱりそんな状況ではありませんでした。当時、やっぱり企業スポーツの方がまだチームを安定させるには良かったです。チームを持つという企業は、やっぱりどこも手は挙げないですよね。そういうアイディアはなかったですし、そういう発想が出なかったですね。
企業(チーム)の立場で言えば、収入がほとんどありません。入場料収入ももう一つです。ですから、全部企業の持ち出しになっています。試合や練習の場となるリンク代から費用はスタートします。そしてまず日本にはリンクが足りていません。リンクから考えなければならず、アイスホッケーのチームはなかなか持てません。

チームを持つということは企業にとっては大変なこと。業績が悪化したからといって、社会的貢献なども絡み簡単に手放すこともままならない。
1つのチームを持つだけでも大変であるにもかかわらず、西武と国土の2チームを持っていた。

Q:1チームを持つことも大変なのに、なぜ西武鉄道と国土計画(のちにコクド)の2チームを持つことになったのですか?

堤名誉会長:あの時は会社の景気も良かったわけですね。別にアイスホッケーのチームを持つことは苦痛じゃなかったですから。福徳相互銀行が辞めて日本リーグのチームの数が足りなくなってしまいました。また選手をたくさん入れたので、試合に出られない選手が大勢いました。それで西武と国土に分けたわけです。
でも、個人的には2チームに分けて、つまらなくなりましたね。1つの方が応援のしがいがあります。
ですが、2つに分けたためにそれぞれの社長に任せ、私はあんまり干渉しませんでした。

堤氏が日本アイスホッケー連盟会長時代、どの競技団体のトップより現場に行って試合を見ていたといわれた。西武ライオンズの優勝がかかった時でも、球場ではなく、アイスホッケー会場に足を運んでいたことも。

Q:西武対王子とか、国土対古河とかなら、西武や国土を応援していると思うのですが、西武対コクドの試合の時は、どういう感覚でご覧になっていたのですか?

堤名誉会長:応援できないからつまらないですね(笑)。
話はそれますが、野球は任せっきりでしたね。(ライオンズの)1回目の優勝まではすごい力を入れましたけど。優勝してしまってからは、「みんなでやってくれ」と干渉しませんでした。
実際のところ、ライオンズの試合は今の方が以前の10倍以上見ていますね。弱いから余計に面白いのですよ。負けてもまたかと。でも勝ったらすごくうれしいですよ。だから、弱いチームほど応援のしがいがあるのですよ。ライオンズが強かった時は、勝って当たり前。私は負けると腹が立つから弱い方が良いですね(笑)。

話を戻しますが、試合だけではなく毎年、最低1年に1度はね、チームを持つ会社の社長と1対1でコミュニケーションを図っていました。だから今の日本アイスホッケー連盟会長の藤木さんもオーナーとはコミュニケーションをよりとった方が良いと思いますね。そうすると、何かあった時も直接(電話で)話ができますからね。

NHLを特別待遇にして迎え入れた長野オリンピック

現在ではプロ選手が出場することも当たり前となっているオリンピック。しかし、「オリンピックはアマチュアのみ」と今では考えられない状況が1980年代までは続いていた。しかも、報酬を受けていたことで、オリンピックに参加できないということも珍しいことではなかった。「オリンピックにおけるプロ・アマ問題」は古くからからあり、いくつか例をあげると……。
前述の1940年「幻の札幌オリンピック」では、スキー教師のアマチュア問題が生じた。IOCと国際スキー連盟(FIS)の対立だった。FISのアマチュア規定では、「スキー教師はプロフェッショナルとは認められない」とする見解であった。一方、IOCは、「スキー教師はアマではないので、出場を認めない」と相容れないものであった。FISの立場は「プロと断定しているオリンピックには参加できない」というものであったため、札幌開催の決定が先延ばしになった。実際、1940年の札幌大会は開催されなかったのだが、仮に開催が決定しても、札幌オリンピックはスキー競技がなしとなる可能性もあった。
1972年の札幌オリンピックでも「アマチュアリズム」に関して、出場資格問題が問われた。IOCのアベリー・ブランデージ会長が、アルペンスキー選手の出場資格を剥奪すると発表すると、FISがボイコット発言で応酬し、対立状態となった。一選手の出場を認めないことで決着をみたが、多くの問題を残した。
また、アイスホッケーではカナダが札幌オリンピックとインスブルックオリンピックに不参加。カナダなどのプロ選手の参加が認められない一方で、ソ連など東側諸国の実質プロである「ステート・アマ」選手は出場できることへの反発から、参加を見合わせた。カナダは世界選手権も1970年から1976年まで参加していない。

Q:国内のトップリーグにも関係したと思いますが、オリンピックへの参加基準となっていた「プロとアマチュア問題」。どのように感じられていましたか?

堤名誉会長:オリンピックそのものが、札幌オリンピックのころは「オリンピックはアマチュアの大会」といわれていました。当時のブランデージIOC会長が、スキーの選手が報酬を受け取ったことで、オリンピックから除外したのです。
国際スキー連盟の会長をしていた(マーク・)ホドラーさんは、IOCの中でも会長候補になるぐらいの有力者だったのです。彼がものすごく怒ってしまい、「オリンピックはアマチュアのスポーツで、プロは参加するものじゃない」となってしまったわけです。
そうすると芸術家はお金を取ってもいいけど、スポーツ選手はお金を受け取るといけないのかと。お金を得るという行為は、そんなに悪いのか、おかしいじゃないか。音楽家でも、画家でも受け取っています。全部お金をもらっていてプロです。

さらに当時、日本体育協会内でもそういう考えがあって、アマチュアということで、すごく大変だったのです。
ですから、アイスホッケーも企業に所属しているサラリーマンでチームをつくって、それを会社が応援しているってことですね。プロではないのですね。
その後、体協自身もアマチュアという言葉があったのですけど、「アマチュア憲章」を「スポーツ憲章」と名称を変えて、世界の流れに乗るようにしたわけです。
そして、オリンピックもプロ化(商業化)していくわけです。札幌オリンピックの後からですね。特にロサンゼルスオリンピックが完全な商業化したわけで、黒字になったのですよ。
それからオリンピックはビジネスになるという考え方になったので、各国で招致活動が起こって現在に至っているわけですね。

ビジネスになるためオリンピックでもプロ選手の参加が当たり前となった。当時の最たるものが、夏季大会であるが1992年のバルセロナオリンピックのバスケットボールにおいて、アメリカがNBAの選手で「ドリームチーム」を編成したことであろう。「ドリームチーム」はオリンピックにおいて実力はもちろんダントツであったが、ビジネスチャンスもつくり上げた。

アイスホッケーでも、1994年のリレハンメルオリンピックで、NHLプレーヤーが参加した「ドリームチーム」実現に向けバルセロナオリンピック終了後、NHLガ動き出した。しかし、時間切れとなり、リレハンメルオリンピックでは「ドリームチーム」は実現しなかった。
4年後の長野オリンピックでの実現に向けて、IIHF、NHLともに動きを止めることはなく交渉は続いた。そして、1994年9月に両者は合意。同年10月のIIHF準年次総会で承認を得た。長野オリンピックでの「ドリームチーム」実現へ大きく前進したが、NHL選手会(NHLPA)の了承はこの段階で得られておらず、NHLとNHLPAの話し合いが持たれることになった。その後、IIHF、NHL、NHLPAが合意し、長野オリンピックにNHLの参加が決定した。カナダ、アメリカ、ロシア、スウェーデン、フィンランド、チェコの6カ国がNHLプレーヤー(一部はNHL以外の選手)で「ドリームチーム」を編成。「ドリームオリンピック」となった。

Q:長野オリンピックですが、日本代表の成績についてはどう思いますか? またNHLプレーヤーの参加については?

堤名誉会長:(日本代表に関しては)ある程度評価してもらえたと思います。
長野オリンピックは、オリンピックで初めてNHLの選手を入れたのです。
長野オリンピックの時のIOC会長は(ファン・アントニオ)サラマンチさんですけど、「長野オリンピックを成功させるためには、どうしてもアイスホッケーにNHLの選手を入れないとダメだ。交渉は自分がやる」といって、NHLと交渉してくれたのです。
試合方式ですが、NHLは2週間休むので、その期間に日本に来る。予選リーグはNHLプレーヤーの関係ない国が戦う。NHL選手が参加したところで6か国を加えて戦う新しい方式を初めて長野で行いました。
私の方に課せられた条件は、NHL選手をVIP扱いにして、選手の家族のためにホテルの部屋を一部屋ずつ取ることでした。それから、日本にいる間は車も提供。飛行機はそれぞれファーストクラスで家族と一緒に日本に来るようにする。さらに特別扱いすることを他から文句をいわせないようにする。それでNHLが参加することを了承したのです。
その結果、長野オリンピックは黒字となりお金が残ったのですね。そのお金はスポーツ振興基金ということで長野の中に置き、オリンピックムーブメントに使えるようにしたわけです。10年近く、使い切るまでいろいろやりましたね。

Q:NHLへの特別待遇ですが、日本国内で他の競技団体からの反発や軋轢は出なかったのですか?

堤名誉会長:全くなかったというか、そのことは公にしていません。マスコミにもいいませんでした。内部秘密情報ですよ。時効になっていますから、今だからいえますがね(笑)。

Q:長野オリンピック後、ソルトレークはアメリカ、バンクーバーはカナダですから、NHLの参加に関してスケジュール調整などのハードルは高くはなかったと思います。しかし、平昌と北京はNHLの参加はありませんでしたが……。

堤名誉会長:今話したようにNHLとの交渉はすごく大変なのですよ。莫大な放映権料が付いたのですから、その期間、NHLを休ませるために、全オーナーの承諾を取らなければならないなど、大変な作業があるわけですよ。
結果的に組織委員会のある意味、強引さがもう一つではなかったのではないでしょうか。

NHLからドラフト指名がベストプレーヤーの選考基準

日本アイスホッケー連盟会長としても30年余り、長期にわたってアイスホッケーに携わり、現場(試合会場)にも足を運び数多くの試合を見てこられた堤氏。多くの名プレーヤーのプレーを見ている。時代を超えた質問をぶつけた。

Q:多くの選手をご覧になられている中で、ベストプレーヤーは誰になりますか? 1人でなくてもかまいませんし、印象に残る選手でもかまいません。

堤名誉会長:それぞれ、時代が違いますからね。
例えばある時代では引木(孝夫)がすごかったですけど、引木と、彼と違う時代の選手が当たったらどうなのか。ちょっと分からないのですよね。星野もそうですけど、その時代、時代に素晴らしい選手はいると思うのですが、時代を超えて評価するとなると、やっぱりNHLからドラフト指名されたのが福藤だけですから、それが基準になるのではないかなと思いますよ。

ところで、星野はなぜドラフトされなかったのかな?(インタビューに同席していた星野氏を見ながら) 
星野が(日光)高校の時に私は見てびっくりしましたよ。怪物でしたよね。
同じ星野という名前のリンクが軽井沢にあり、試合を見に行ったのです。当時、苫小牧東高校は大学チームに勝つくらい強いチームだったのですよ。その苫小牧東の星野の1年先輩の3年生の選手たちが、(2年生の)星野に触れられなかった。星野が一人で自陣からパックをキープして、自分のゴールから相手のゴールまで持っていってゴールを決めたのです。こんなすごい選手がいるのだと思いましたね。
でも明治大学に入ったらね、ガタッと落ちちゃう(笑)。さらに国土へ来たらまた落ちて(笑)。
高校生の時から、(星野を)絶対に取ると思っていました。星野を取るのはもう大変でしたよ。

話はずれますが、ライオンズも最初の頃、私が直接指示をして獲得したこともありました。チームの力は、スカウトで決まります。今、ソフトバンクホークスが強いのもそれです。

話を戻しますが、星野はすごかったですよ。でも、星野以外の選手との実力差は、上に行けば詰まってきましたからね。高校の時は相手のレベルとの差がすごく開いていました。星野はスピードもあって、テクニックもあって、シュートもできる。さらに(サイズも)大きかったですね。何しろでかかったですよ。
星野の前に最初にびっくりしたのは引木ですね。何にびっくりしたかというと、引木はまっすぐ滑ってきて分からないようにスピードを変えるのですよ。
だから、DF2人が、挟めば良いのに、引木がまっすぐ来てブレーキをかけるのが分からない。DFが分からない状況で引木はブレーキをかけますから、DF2人が焦って出るので、ずれて隙間ができるのですよ。それでそこからスッと入って来られてしまう。
星野の運が悪かったのは、名ウイングがいなかったからかな(笑)。やっぱり引木や岩本宏二が高く評価されたのも、良いウイングがいたからかな。自分がパックを持っていって、ウイングに渡してゴールを決めての評価。センターをやっていてウイングの良いのがいたらもっとすごくうまくいったのではないかな。星野が例えばメルや引木らのウイングをやったら面白かったかな。でもウイングでは、カナダに行けばディフェンスに止められているからな。カナダには2メートル100キロなんていうDFがうなっているからね。

話はそれますが、面白い話として日本選手ではないですが、フィルソフというソ連のセンター。一番うまいのがいたのです。彼の思い出は、帰国する際、「土産に何が欲しい」と聞いたら、「ナイロンストッキングが欲しい」というのです。彼女が女優をしていたのです。当時、ソ連にはナイロンストッキングがないということで、ナイロンストッキングをやったらすごく喜びましたね。
彼のテクニックとしては、スティックの先でパックをチョンといじってスティックのブレードに乗っけてしまうのですよ。スティックに乗っけて、ドリブルではなく、そのまま持って行ってね(笑)。あの技術とかはびっくりしましたね。

星野好男氏の経歴を紹介すると。星野氏は1950年11月2日、日光生まれ。日光高校から明治大学を経て国土計画入り。1年目にカナダ・UBCに留学。帰国後、チームはもちろん日本を代表する選手として活躍。日本リーグ通算308試合出場、185ゴール266アシスト451ポイント、MVP2回、ベスト6に7回、最優秀新人賞などを受賞。日本代表としては明治大3年の時に札幌オリンピックに出場するなどオリンピック3回、世界選手権13回出場。
インタビューの高校時代の話であるが、その当時の高校の勢力図を紹介すると……。苫小牧東高校には、星野氏の1年先輩には岩本武志氏(苫小牧東高→法政大→国土)、堀寛氏(苫小牧東高→西武)、松田幹郎氏(苫小牧東高→法政大→国土)らがおり、札幌オリンピックへ向けた強化の一環として大学や高校も参加した第38回全日本選手権(67-68シーズン)で、6-3で明治大学を破り、日本リーグの西武鉄道に2-15で敗れはしたもの、高校の中では絶対的な存在といっても過言ではなかった。星野氏が2年の時の第17回インターハイ(1967-1968シーズン)で、日光高校はチームとしては苫小牧東高校に3-6で敗れた。だが、星野氏が3年生となった翌シーズン、日光高校は見事にインターハイ(第18回大会)を制し、「高校日本一」の称号を手にした。

また、アナトリー・フィルソフ(1941年2月1日-2000年7月24日)を紹介すると。ソ連代表としてオリンピックに3回出場し(1964、1968、1972)、18ゴール、12アシスト、30ポイントをマーク。世界選手権にも6回出場し(1965、1966、1967、1969、1970、1971)、45ゴール、40アシスト、85ポイントをマークした。オリンピックではベストFWに1回(1968)、世界選手権ではベストFWに2回(1967、1971)選ばれている。オリンピック、世界選手権ともに全大会で金メダルを獲得した。日本には1968年にチェスカのメンバーとして、また、ソ連代表として1972年の札幌オリンピックで来日。札幌オリンピック後の2月16日に行われた日本との親善試合が、ソ連代表の最後の試合となった。

スピードと連携プレーがアイスホッケーの魅力

「アイスホッケーは見れば面白い」といわれて久しい。堤氏もアイスホッケーの魅力に引き付けられ、「はまった」に違いない。

Q:アイスホッケーの魅力とは? 何に引き付けられましたか?

堤名誉会長:まずはスピードですね。それと個人も大事だけど、チームプレーというか、連携プレーですかね。
ナショナルチームを編成する際、選手選考の委員にいったのは、このセンターが良い。このウイングが良い。そういう個々の選考方法では、短期間の合宿では成果が出ないよ。必ずセットで、このセンターにはこのウイング、チームのセットですね。だから引木-黒川、岩本-岡島とか、セットでの3人は無理でも、せめてそういう選考をして、さらにDFも気の合ったのと組む。チームが違う優秀な選手を2人連れてくるより、1つのチームで組んでいる選手を選考した方が良いのです。まあ、2カ月も合宿すればバラバラでも良いですけど。1カ月も合宿ができない中で大会(試合)に行くなら、セットで選考しないといけないといいましたが、多人数で選考すると人気投票みたいになってしまいましたね。

Q:仕事などお忙しいかと思いますが、西武や国土の試合があると、東伏見や品川へ行かれて試合を観戦されていました。お忙しい中、何がそうさせたのでしょうか。

堤名誉会長:アイスホッケーの試合を見るのが面白かったですね。目が離せない。面白いですから集中できます。
野球は食べながら飲みながらでも見ることができるけど、かぶりついては見ないですよね。

Q:秘書の方などもいましたが、オーナー席(バルコニー)から試合をご覧になり、どんな話をしていたのですか。黙々と見ていたのですか?

堤名誉会長:上から結構、監督にこうやったらとか、紙に背番号を書いてね……。選手の背番号は全部もちろん知っていますから。

Q:ところで、ご自身で実際にプレーをしようとは?

堤名誉会長:いや、いや。できないですよ。高校の頃はスケートはやっていましたけど、とてもじゃないですが、パックが足に当たったら転んじゃいますよ。よちよちで、別世界ですね(笑)。

強くするには底辺の拡大

1972年に日本スケート連盟から分離・独立して誕生した日本アイスホッケー連盟は2023年、50周年を迎えた。日本のアイスホッケー界の現状、さらに今後の50年(将来)はどのような現実が待っているのだろうか。

Q:日本におけるアイスホッケー界の現状をどう思われていますか。また将来に向かってどう進んでいってもらいたいと思いますか。またオリンピックだけではなく、日本代表の目指す先は、具体的に何かありますか?

堤名誉会長:私は全て人に譲ったら任せています。キリがないので、干渉しないことにしています。
現在の状況ですね、男子に関しては厳しいことをいいますが、打つ手がなかなかないですよね。元々体力差の問題があるのですけど、アイスホッケーが世界的にものすごい勢いで普及したわけですよ。日本(のIIHFランキング)は今何位か。22、23位くらいですよね。今、IIHFの加盟国は40から50カ国あります。日本の現在の順位ですが、体力差もありますし、頑張っていると思いますよ。
女子は良いところにいっていますね。正直、まだ(男子に比べ)女子がやっている国も少ないという面もあるかとは思いますけど……。

やっぱり日本のアイスホッケーを強くするには、まずは底辺の拡大ですよね。カナダはほとんどの高校でアイスホッケーのリンクがあります。
日本で(アイスホッケー)リンクを持っている大学は関西大学だけです。まず、もう少し多くの大学が自前のリンクを持ってくれればいいのですけどね。体育館感覚でアイスホッケーのリンクがあれば良いのですがね。
日本はアイスホッケーをやろうと思って滑りたくても、リンクがないので滑れないわけです。リンクへの最大のハードルはまず土地が高いことです。日本はリンクの場所を確保するのが大変です。さらに壁になっているのは電気代です。
リンクの貸し切りに1時間半ぐらいで約8万円払って、昼間はダメで深夜とか早朝しか借りられない。これでは……。
これからはやっぱり大学ですね。ゼロからですと話はなかなか進みませんが、関西大学がリンクを持ったということですからね。アイスマットを活用すれば、体育館が容易にリンクになります。冬はアイスホッケーをやって、他のシーズンはバスケットボールなど他の競技と重なっても良いわけです。
とにかく底辺を広げなければダメです。ですから日本アイスホッケー連盟の仕事として、まずはリンクを増やすようにどうやって働きかけをするか。大きな問題があります。
リンクがなければチームができません。リンクとチームは同時に進めなければならないのでしょうが……。

また、日本におけるアイスホッケーの興行権は日本アイスホッケー連盟が持っているわけです。やっぱり外国のチームを呼んで、興行(試合)を開催することも考えられます。例えばNHLの選手もチームもシーズンオフだったら来る可能性はあるかと思いますよ。呼んで稼ぐことは可能だと思いますね。
トッププレーヤーの試合を見せるということは、アイスホッケーに興味を持たせる早道じゃないかと思います。やっぱり迫力がすごいですよね。

品川や東伏見、東大和、さらには北九州などにもリンクをつくった堤氏。リンクをつくり維持する大変さは身をもって知っている。
リンクをつくることの難しさも承知している上で、あえてリンクの必要性を話された。それだけ重みのある発言といえるのではないだろうか。
現在、第一線から身を引き、「干渉しない」と話し、今後のことに関して多くは語らなかった。しかし、言葉の節々からは日本代表やトップリーグなどはもちろんのこと、日本のアイスホッケー界が発展してもらいたいという強い思いが発せられていたことは間違いない。

第1版:2025年3月31日・記

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