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1986-1987シーズン
【1986-1987総括】
前シーズン(1985-1986シーズン)の1986世界選手権Bプールで2勝5敗(勝点4)の最下位(8位)となり、Cプールへ降格となった日本代表。1986-1987シーズンの最大目標は、「Cプールからの脱出」と「カルガリーオリンピック出場権をかけたプレーオフを勝ち抜く」の2つに集約されていました。目標達成の成否は、今後の日本のアイスホッケー界の命運を握っていました。一方で目標達成は厳しい道のりであり危機感にもあふれていました。
世界選手権Cプールでは、奇跡の逆転優勝を飾り、「Cプールからの脱出」という一つ目の目標は達成しました。この結果、カルガリーオリンピックの出場をかけたプレーオフへの出場権を獲得しました。しかし、残念ながらプレーオフではBプール4位のフランスと1勝1敗のタイながら、得失点2点の差で、カルガリーオリピックへの切符を手にすることはできませんでした。
オリンピックに出場するとしないとでは、スポンサーやマスコミをはじめ、さまざまな分野で大きな影響が出てくることは否定できませんでした。今後、世界の列強に対して勝ち抜いていくためには、外国チームに勝るスピードと若さの運動量に磨き抜いた代表チームを作り上げるしかありません。そのためには、これまで以上の努力が必要となってくることが明らかになりました。
その対策として、ジュニア時代からの強化が大切になります。その一環として、各地のエリート高校生を選抜した区別拠点塾が発足しました。また、1987-1988シーズンには世界ジュニア選手権Bプールが札幌で開催することになりました。Bプールで優勝しAプール昇格となれば、日本アイスホッケー界の大きな弾みになることは間違いないことと思われました。
2大会連続してオリンピック出場を逃した日本。そのことによって生じる危機感は相当なものがありました。鬼鞍弘起・日本アイスホッケー連盟(日ア連)専務理事(当時)は、日本アイスホッケー年鑑 昭和61年-62年 第6号の「シーズン総括報告」で次のように締めくくっています。
「日本代表がCプール以下に低迷するようなことになると、日本のアイスホッケー界は世界から置き去りにされてしまいます。そうなると全日本選手権や日本リーグなどの魅力も消えてしまうかもしれません。なんとしてもメジャースポーツへ押し上げなければなりません。そのためには世界に通じる次元の高い、激しいプレーが求められます。また選手に限らず、第一線の指導者にも高く広い視野が大切になります。日本代表が好成績を収め、世界のトップに肉薄し、上位に位置することが重要です。そのことによりアイスホッケーの魅力が高まり、メジャースポーツへの階段を登り大きく発展する。この厳しい道を切り開いていくものと念願します」(要約)。
しかし、その後の世界選手権における現実は厳しいものが待っていたと言えるかもしれませんでした。
【1986-1987日本代表】
Bプールへの復帰が至上命題の日本代表。第55回全日本選手権終了後(1987年1月)に代表選考を終え、ソ連ナショナルBチームとの強化試合やソ連・ノボシビルスクへの遠征などを経て、1987年3月20日から29日までデンマーク・コペンハーゲンで開催された1987世界選手権Cプールに参加しました。ベルギーに24-0、ブルガリアに11-2と大勝かつ2連勝と好発進した日本でしたが、3戦目のルーマニアに3-5とまさかの敗戦。続くハンガリーには3-1と勝ったものの、5戦目のユーゴスラビアに5-5と引き分けたことで、自力優勝がなくなり、Bプール復帰は厳しい状況になりました。しかし、第6戦の北朝鮮に9-0と勝利し、最終戦のデンマーク戦に逆転優勝の望みを残しました。デンマーク戦の前に行われたルーマニア対ユーゴスラビア戦が引き分け(4-4)となったことで、日本が「4点差以上で勝てば優勝」が絶対条件になりました。この条件を見事にクリア、6-0の完封勝ちで逆転優勝を飾り、Bプール復帰とカルガリーオリンピック出場権獲得のためのプレーオフ進出の切符を手にしました。
プレーオフは対戦相手(Bプール4位国)、開催場所、日時などがギリギリまで決まりませんでした。Bプールの結果、対戦相手がフランス、開催場所が西ドイツ・ラチンゲン、日時が4月9、10日と決まったのは試合の数日前のことでした。
直前の世界選手権Bプールで4勝1分2敗の4位、メンバーのほぼ半数がカナディアンというフランスとのカルガリーオリピック出場権をかけて行われたプレーオフ、第1戦を4-7で落とした日本。第2戦は4点差の勝ちなら逆転でカルガリー行きの切符を手にでき、3点差勝ちでもサドンデスの延長戦に持ち込めました。しかし、3-2と勝利して1勝1敗のタイとしたもの、2試合合計の総得失点差で、2点及ばず、オリンピック出場は夢に終わりました。
日本ジュニア代表は1987年3月15日から21日までフランス・ルアンで開催された1987世界ジュニア選手権Bプールに参加しました。前シーズンまでの競技方法が変更され、4カ国ずつの2グループで予選リーグを行い、その後、順位決定戦が行われました。
日本はAグループに属し、予選リーグでは第2戦の西ドイツには3-6で敗れましたが、初戦のルーマニアに11-7、第3戦のフランスに3-1と勝利し、2勝1敗の2位で決勝リーグへ進出。決勝リーグではノルウェーに5-7と敗れましたが、オーストリアを6-3で下し、3位入賞を果たしました。
アジア・オセアニアジュニア日本代表は1987年2月15日から21日まで中国・吉林で行われた1987アジア・オセアニアジュニア選手権に出場しました。前シーズンは参加国がオーストラリア、韓国、中国、日本の4カ国でしたが、今大会は北朝鮮が新たに参加し、5カ国で行われました。日本は初戦の北朝鮮に1-5と敗れましたが、2戦目以降はオーストラリアを9-1、韓国を9-0、中国を3-2で破り3勝1敗。北朝鮮、中国、日本の3カ国が3勝1敗で並びましたが、順位決定規定により2位に終わり4連覇を逃しました(優勝は北朝鮮)。しかし、この結果は覆りました。北朝鮮が参加資格のない年齢オーバーの選手を出場させていたため失格となり、優勝は取り消しになりました。得失点差で日本が優勝となったのでした。
ユニバーシアード日本代表は1987年2月21日から28日までチェコスロバキア・ストラブスケプレソなどで行われたユニバーシアード冬季大会に参加しました。今回のメンバー構成は日本リーガー3名、大学生17名でした。競技方法は参加9カ国を2つのグループ(4カ国と5カ国)分けて予選リーグを行い、上位2カ国で決勝リーグ、それ以外で順位決定リーグが行われました。
日本は予選リーグでBグループに属し、第1戦のユーゴスラビア(7-2)と第4戦の北朝鮮(4-2)に勝ちましたが、第2戦のチェコスロバキア(1-4)と第3戦のフィンランド(1-2)に敗れ、2勝2敗の3位となり、順位決定リーグへ回りました。順位決定リーグでは韓国に6-1と勝ちましたが、中国には1-2で敗れ、5位に終わりました。
女子日本代表は1987年4月21日から26日までカナダ・トロントで開催された第1回世界女子トーナメント大会に参加しました。この大会は1986年6月に行われた国際アイスホッケー連盟(IIHF)四年次総会でカナダから「女子の第1回世界大会を開催したい」との提案があり、IIHFもこれを公認して開かれたものでした。参加国は、カナダ、アメリカ、スウェーデン、スイス、オランダ、日本、オンタリオ州の7チームでした。日本は初戦のオランダに5-2勝利したもの、2戦目以降はカナダに0-11、スイスに4-6、オンタリオ州に0-14、アメリカに0-16、スウェーデンに0-3と5連敗。しかし、順位決定予選でオランダに4-0と勝利し、5-6位決定戦に進み、スイスに0-4と敗れ6位に終わりました。
今後の女子の世界大会ですが、1988年に西ドイツでヨーロッパ選手権の開催の計画が明らかにされました。世界大会の開催に関しては経費などの関係で毎年の開催は難しいが、4年ごとでは間隔が空きすぎるということで、2年ごとの開催となりました。次回は1989年にカナダ・オンタリオ州で開催し、その次の1991年の開催はアメリカが声を上げました。今後、この大会を成功させることにより、オリンピック種目へ採用されることを目指しました。
実際のところ、女子の第1回世界選手権は1990年にカナダ・オタワで開かれました。また、オリンピックにおける女子アイスホッケーは1998年の長野大会から正式種目になりました。
【1986-1987主なJIHF主催大会】
第55回全日本選手権Aグループ(1986年12月28日~1987年1月2日@東京・東伏見アイスアリーナ、国立代々木競技場)
前シーズン同様、日本リーグ6チームを3チームずつの2つのグループに分けて予選リーグを行い、それぞれ上位2チームが決勝トーナメントに進出し、準決勝は各グループの1位対2位、そして勝者が決勝で対戦する形式で行われました。開催時期は年末年始で、準決勝は1月1日、決勝は1月2日という「正月決戦」となりました。
予選A組は1位・王子製紙、2位・雪印、3位・古河電工に、予選B組は1位・国土計画、2位・西武鉄道、3位・十條製紙となりました。準決勝と決勝は正月決戦。さらに初詣での参拝者・日本一の明治神宮が会場となった国立代々木競技場に隣接していることもあり、晴れ着姿のファンなどが駆け付け、準決勝は約5,000人、決勝は8,000人余り大観衆が見守る中で行われました。準決勝は王子が西武に4-2、雪印が国土に6-3で勝利しました。そして王子と雪印の決勝戦は王子が9-4で雪印を下しました。王子は創部60周年の節目のシーズンに、全日本選手権5連覇、日本リーグとの2冠達成を成し遂げました。
第21回全日本選手権Bグループは87年2月19日から21日まで群馬・伊香保ハイランドスケートセンターで16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝で山陽国策パルプが吉田産業を11-3で破り2年連続2回目の優勝を成し遂げました。
第6回全日本女子大会(1987年2月28日~3月3日@苫小牧・王子スポーツセンター他)
今大会には14チームが参加し、予選は3つのグループ(5チーム、5チーム、4チーム)に分けたリーグ戦、その後、各グループの1位チームによる決勝リーグ、各グループ2位以下による順位決定トーナメントが行われました。決勝リーグでは国土計画が1勝1分で2年連続3回目の優勝を飾りました。
第21回日本リーグ(1986年9月27日~12月24日/6チーム6回戦総当たり)
第21回日本リーグは6チームによる6回戦総当たり、2シーズン前から採用されているホーム&アウェイ方式が初めて全試合に広げられ行われました。
開幕前から「戦国リーグ」と言われた第21回日本リーグ。前半は連覇を目指す国土、覇権奪回に燃える王子、伝統の復活にかける西武の三つ巴となりました。後半戦に突入すると西武が脱落し、国土と王子がマッチレースを展開。11月下旬に行われた直接対決に連勝した王子にマジックナンバーが点灯。28試合目となった地元苫小牧での十條戦に勝利し日本リーグの覇権を奪回しました。
優勝争いとは別の話になりますが、雪印の伊藤実監督とボワベールコーチが、日本リーグの途中で休養となり、山田亮コーチが監督代行となる出来事もありました。
第42回国民体育大会(1987年1月27日~30日@長野・軽井沢スケートセンター)
成年の部は28都道府県が参加し、決勝戦で東京が青森を8-4で破り5年連続11回目の優勝を飾りました。少年の部では14都道府県が参加し、決勝戦で北海道が栃木を10-3で破り26年連続38回目の優勝を成し遂げました。また、今大会では大阪が成年、少年ともに4位となる健闘を見せました。
第59回日本学生氷上競技選手権・インカレ(1986年12月22日~26日@日光・電工リンク他)
29校が参加。決勝戦は2回戦で大東文化、準々決勝で中央、準決勝で専修を破った東洋と、2回戦で愛知学院、準々決勝で東海、準決勝で法政を破った明治が対戦。このカードは3大会連続の同じ顔合わせとなりました。一進一退の攻防を繰り広げ4-4の同点で迎えた第3ピリオド終盤、延長戦かと思われた試合終了2秒前に東洋が決勝ゴールを挙げ5-4で勝利し、初の栄冠を手にしました。
第36回全国高校選手権・インターハイ(1987年1月18日~22日@青森・八戸長根リンク他)
全国11都道府県から32校、約570人と史上最多(当時)の参加を数えました。決勝は釧路工業と苫小牧東の顔合わせになりました。釧路工業は1回戦で苫小牧中央、2回戦で今市、準々決勝で釧路北、準決勝で苫小牧南に勝利し勝ち上がりました。一方、苫小牧東は1回戦で八戸商業、2回戦は苫小牧工業、準々決勝は釧路湖陵、準決勝で日光を破り決勝へ進出しました。決勝戦は釧路工業が2-0で苫小牧東を退け、2年ぶり3回目の優勝を飾るともに、「全道大会との2冠」を達成しました。
第7回全国中学校スケート競技大会(1987年2月4日~6日@山梨・河口湖)
10チームが参加して行われ、決勝は日光東と釧路大楽毛の対決となり、日光東が北海道の牙城を崩し、3-2で初優勝を飾りました。
第11回全日本少年競技会(1987年3月27日~31日@東京・品川プリンスホテルアイスアリーナ)
小学生の部(現・風越カップ全日本少年大会小学生の部)
12チームが参加。決勝戦は苫小牧選抜と釧路選抜で争われました。苫小牧選抜は2回戦で東海・信越選抜、準決勝で帯広選抜を破り、釧路選抜は2回戦で札幌選抜、準決勝で栃木県選抜を破り、それぞれ決勝へ進出してきました。決勝では苫小牧選抜が2-1で勝利し、4年連続10回目の優勝を飾りました。
中学生の部(現・全日本少年大会中学生の部)
12チームが参加。2回戦で千葉Jrペンギンズ、準決勝で苫小牧選抜を破った釧路選抜と、2回戦で帯広選抜、準決勝で青森県選抜を破った栃木県選抜との間で行われました。決勝では釧路選抜を9-1で破り、7連覇を成し遂げました。
【その他の大会・出来事】
日本・ソビエト対抗アイスホッケー大会(1987年2月4日~11日@東京・国立代々木競技場他)
1987世界選手権Cプールを控えた日本代表の強化試合として、ソ連のナショナルBチームと強化試合が6試合行われました。日本代表は第1戦(苫小牧・王子)が1-3、第2戦(札幌・真駒内)は5-8、第3、4戦(ともに東京・国立代々木)は1-10、3-8、第5戦(神戸・ポートアイランド)が0-6、最終戦(東京・東伏見)1-12と6戦全敗でした。
「日本体協スポーツ憲章」の制定、施行
「アマチュアスポーツの総本山」とも言われた日本体育協会が1986年5月7日、「日本体協スポーツ憲章」を制定、施行しました。この憲章はプロ容認に踏み切った内容で、サッカーでは奥寺康彦氏と木村和司氏の2人がプロ選手として誕生しました。また全日本アマチュアレスリング選手権にプロレスラーの谷津嘉章氏が出場しました。
日ア連はスポーツ憲章の施行に伴い、競技者規定などの見直しを行い、評議委員会で承認を受けました。6月28日から施行された「日本アイスホッケー連盟スポーツマン綱領」の「第2章 登録者」の第3条により、「現役プロ」は登録者となり得ないことが定められました。この時点で、原則、プロ選手の誕生も外国現役プロの導入も認められないこととなりました。
第1版:2024年9月19日・記
- <主な参考文献>
- 日本アイスホッケー年鑑 昭和60年-61年 第5号、昭和61年-62年 第6号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1986-1987 No.1、3、4、5(発行:ベースボール・マガジン社)