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1987-1988シーズン
【1987-1988総括】
1987-1988シーズンはオリンピックシーズンでしたが、1988年2月13日から28日までカナダ・カルガリーで開かれたオリンピックに日本代表は出場することはできませんでした。1980年のレークプラシッド大会の出場から8年の空白期間ができてしまいました。その間、日本代表は世界選手権において、BプールとCプールを行き来しており、世界のトップクラスと交えることはあまりありませんでした。次回のオリンピックは1992年にフランス・アルベールビルで開催されます。この大会には日本アイスホッケー界の命運がかかっていると言っても過言ではない状況とも思われました。
1987-1988シーズンは日本アイスホッケー連盟(日ア連)が策定した選手強化10年計画の中間となりました。日本代表は若手選手を中心に2カ月間にわたり、ソ連・ハバロフスク合宿を皮切りにヨーロッパ遠征を行いました。その締めくくりとして、オランダで開催されたセイヤー・タット杯に参加しました。
日本ジュニア代表は世界ジュニア選手権Bプールを3月に札幌で開催。初のAプール入りを目指しました。しかし、4位に終わり、メダル獲得を逃しました。
日本のライバルであるヨーロッパのBプール各国の強化の進み具合を考えると、謙虚に反省する点は反省し、対策を講ずるのは当然のこととして、強化10年計画もより良いものに見直す必要もあると思われました。日本代表を含めエイジグループ各代表の監督をはじめとしたスタッフ陣の若返りを決め、アルベールビルオリンピック出場へ向け強化をスタートしました。
厳しい状況下にある中、カルガリーオリンピック金メダルのソ連ナショナルチームが1988年5月に来日して、日本代表とテストマッチ(2試合)を行いました。しかも、今回限りではなく、複数年来日し試合を行う計画があることも明らかになりました。実際、翌1988-1989シーズンはソ連とチェコスロバキア、その次のシーズン(1989-1990)はソ連とスウェーデンが来日し、試合を行いました。
ナショナルチームに関して大きく焦点を当てましたが、国内事業に目を向けると、日本リーグは日ア連にとって強化・事業・普及の大きな柱です。第22回日本リーグは史上最高の利益を計上する好決算となりました。
大会や試合以外では、1987年8月20日から26日までカナダ・トロントでIIHF(国際アイスホッケー連盟)レフェリーセミナーが開催され、ソ連、チェコスロバキア、スウェーデン、フィンランド、西ドイツ、カナダ、アメリカ、スイス、ノルウェー、ポーランド、フランス、日本の12カ国のレフェリーが参加。若手レフェリーの育成、世界的にルールの統一、ラフプレーの防止などを目的に講習・実技が行われました。また1988年6月9日から12日までハンガリー・ブダペストで医師および物理療法士(トレーナー)による「第4回IIHF医事委員会国際コングレス」が開かれ、アイスホッケーにおけるスポーツ医学も世界的に新しい世代に入った感があることが示されました。
【1987-1988日本代表】
オリンピックイヤーのため世界選手権が開催されないシーズン。今後を見据え日本代表は経験豊富なベテランを選考から除き、若手主体のチーム編成となりました。1月下旬から3月下旬まで、ソ連・ハバロフスク合宿を皮切りに2カ月間でソ連、デンマーク、チェコスロバキア、西ドイツ、ユーゴスラビア、イタリア、オランダの7カ国で試合を行いました。この遠征の成果を問う場となったのが、カルガリーオリンピックに出場できなかった12カ国が参加して1988年3月20日から26日まで開催されたセイヤー・タット杯でした。6カ国ずつに分けた予選リーグで日本は、中国に5-3、北朝鮮に5-0(不戦勝)、ブルガリアに1-3、オーストラリアに15-2、オランダに5-2と4勝1敗の予選Aグループ1位で決勝へ進出しました。決勝では予選Bグループ1位イタリアに0-3で敗れましたが、最終順位で2位となりました。
日本ジュニア代表は1988年3月12日から21日まで、札幌で開催された1988世界ジュニア選手権Bプールに参加しました。地元開催でもあり、優勝=Aプール昇格を目指しました。競技方式は前回とは異なり参加8カ国の総当たりリーグ戦で行われました。
日本は初戦のルーマニアに2-3、続くユーゴスラビアに6-8とまさかの2連敗スタート。3戦目のオランダに4-4と引き分けた時点では、Cプール転落の危機に陥ってしまいました。しかし、ここから日本は巻き返しました。オーストリアに10-7、フランスに7-1、ノルウェーには試合終了まで1秒を切った状況での決勝ゴールで4-3と3連勝、最終戦(スイス戦)にメダル獲得の望みをつなげました。スイス戦は勝てば銅メダルでしたが、1-1の引き分け。あと一歩でメダルを逃す4位に終わりました。
アジア・オセアニアジュニア日本代表は1988年2月6日から13日までオーストラリア・ベンディゴで行われた1988アジア・オセアニアジュニア選手権に出場しました。参加国はオーストラリア、韓国、中国、日本の4カ国。2回戦総当たりのリーグ戦が行われ、日本は韓国(9-2、12-4)、オーストラリア(10-0、21-2)にはそれぞれ2連勝しましたが、中国には3-7、4-4と1分1敗に終わり、初めて覇権を手にすることができず、2位に終わりました。
【1987-1988主なJIHF主催大会】
第56回全日本選手権Aグループ(1987年12月24日~1988年1月2日@東京・東伏見アイスアリーナ、国立代々木競技場)
前シーズンと異なる試合方式となった今大会。第22回日本リーグに今大会の予選的な要素を持たせました。日本リーグ上位3チームは準決勝リーグへ進出決定。日本リーグの5位と6位が第1次予選、その勝者が日本リーグ4位と対戦し、勝者が準決勝リーグへ進出することになりました。準決勝リーグは1回総当たり戦。上位2チームが決勝へ進み、下位2チームが3位決定戦に回る方式になりました。
1次予選は日本リーグ5位の十條製紙が同6位の古河電工を7-1で破り勝ち上がりました。日本リーグ4位の西武鉄道にも4-3で勝利し、準決勝リーグ進出を果たしました。準決勝リーグでは王子製紙、国土計画、雪印の3チームが2勝1敗(当該チーム間は1勝1敗)で並びましたが、当該チーム間の得失点差で王子がプラス2、国土ゼロ、雪印マイナス2となり、決勝は王子対国土、3位決定戦は雪印対十條(準決勝リーグ3敗)となりました。決勝は60分間を戦い終えても3-3の同点。決着はサドンデス方式の延長にもつれ込み、国土が4-3で勝ち、6年ぶり3回目の優勝を果たしました。
第22回全日本選手権Bグループは1988年2月19日から21日まで北海道・帯広の森アイスアリーナで12チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝で十條JOBが帯広選抜を5-3で破り初優勝を飾りました。
第7回全日本女子大会(1988年2月29日~3月3日@長野・軽井沢スケートセンター)
16チームが参加し、予選は4つのグループ(それぞれ4チーム)に分けたリーグ戦、その後、各グループの1位チームによる決勝リーグ、各グループ2位以下による順位決定トーナメントが行われました。決勝リーグでは苫小牧ペリグリンが3戦全勝で3年ぶり2回目の優勝を飾りました。
第22回日本リーグ(1987年9月26日~12月24日/6チーム6回戦総当たり)
第22回日本リーグは6チームによる6回戦総当たり、ホーム&アウェイ方式が行われました。原則、各チームのホームリンクで試合は行われましたが、ホームリンク以外の地方開催が増えました。第21回リーグまでは八戸や神戸などの地方開催は、1シーズンで概ね2〜3会場でした。それが帯広、旭川、八戸、前橋、軽井沢、神戸の6箇所になりました。
大混戦となった第21回日本リーグの覇権の行方ですが、1位と2位の勝ち点差は1の決着でした。リーグ90試合目の最終戦となった王子製紙対国土計画がまさに「最終決戦」となりました。会場の東伏見アイスアリーナは5,300人の超満員(東伏見アイスアリーナ観客動員史上最高・当時)。その大観衆が身守る中、両チームが死力を尽くす最終決戦は5-5の引き分け。この結果、王子は勝ち点45、国土は勝ち点44、勝ち点差1で王子が2年連続10回目のリーグ優勝を決めました。
第43回国民体育大会(1988年1月27日~30日@群馬・伊香保ハイランドスケートセンター)
成年の部は28都道府県が参加し、決勝戦で青森が東京を5-3で破り6年ぶり9回目の優勝を飾りました。少年の部では14都道府県が参加し、決勝戦で栃木が北海道を6-5で破り、北海道の27連覇を阻止し19年ぶり3回目の優勝を成し遂げました。19年前(第24回大会)は決勝戦が中止され、栃木は北海道と優勝を分けました。栃木が単独優勝となるのは27年ぶり(第16回大会以来)のことでした。
第60回日本学生氷上競技選手権・インカレ(1987年12月21日~25日@日光・電工リンク他)
29校が参加。決勝戦は2回戦で明治学院、準々決勝で日本大、準決勝で法政を破った明治と、2回戦で関西学院、準々決勝で中央、準決勝で日本体育を破り連覇を狙う東洋が対戦。このカードは4大会連続の同じ顔合わせとなりました。明治が4-2で勝利し、前回大会の雪辱を果たすとともに2年ぶり17回目の優勝を成し遂げました。
第37回全国高校選手権・インターハイ(1988年1月21日~24日@北海道・帯広の森アイスアリーナ)
30校が参加。決勝は駒大苫小牧と釧路工業の顔合わせになりました。駒大苫小牧は1回戦で八戸、2回戦で釧路短大附、準々決勝で日光、準決勝で苫小牧工業に勝利し勝ち上がりました。一方、連覇を狙う釧路工業は2回戦で龍澤、準々決勝は八戸工大一、準決勝で八戸商業を破り決勝へ進出しました。決勝戦は駒大苫小牧が3-2で釧路工業を下し、2年ぶり9回目の優勝を飾るともに、「全道大会との2冠」を達成しました。
第8回全国中学校競技大会(1988年2月3日~5日@日光・電工、細尾)
13チームが参加して行われ、決勝は苫小牧明倫と苫小牧東の「苫小牧対決」となり、明倫が東を7-3で破り初優勝を飾りました。苫小牧勢の優勝は第2回大会の和光以来でした。
第12回全日本少年競技会(1988年3月27日~31日@東京・品川プリンスホテルアイスアリーナ)
小学生の部(現・風越カップ全日本少年大会小学生の部)
12チームが参加。苫小牧選抜は2回戦で帯広選抜をPS戦で、準決勝もPS戦で札幌選抜を破り決勝進出。釧路選抜は2回戦で八戸南Jr、準決勝で栃木県選抜を破り決勝へ進出してきました。決勝では苫小牧選抜が5-4で勝利し、5年連続11回目の優勝を飾りました。
中学生の部(現・全日本少年大会中学生の部)
12チームが参加。2回戦で帯広選抜、準決勝で青森県選抜を破った釧路選抜と、2回戦で広島コレクターズ、準決勝で栃木県選抜を破った苫小牧選抜との間で行われました。決勝では5年ぶりに決勝進出を果たした苫小牧選抜が釧路選抜を3-2で破り、釧路選抜の8連覇を阻止するとともに8年ぶり5回目の優勝を成し遂げました。
【その他の大会・出来事】
アイスホッケー・スーパーマッチ「ソ連オリンピック優勝チーム招待大会」@東京・品川プリンスホテルアイスアリーナ
「カルガリーオリンピック金メダルのソ連ナショナルチームと日本代表が試合」。夢のようなビッグマッチが1988年5月18、19日に実現しました。10-4、13-2と結果はもちろんソ連の2連勝でした。世界トップとの差を見せつけられた日本でしたが、結果は度外視し、選手はもちろんのこと日本の関係者やファンにとっては本場の実力を知るまたとないチャンスとなりました。
カルガリーオリンピック
1988年2月13日から28日までアイスホッケーの母国・カナダで開催されたカルガリーオリンピック。開会式開催中から試合が組まれ、参加12カ国を2つのグループに分け予選リーグが行われました。そして、各グループ上位3カ国の計6カ国による決勝リーグが行われました。これまでならソ連が優勝候補の一番手に挙げられるところでしたが、選手の新旧交代がうまく進まず、1987世界選手権Aプールの2位に終わった後も今一つの試合結果が続いていました。そのため、優勝候補としては87年の世界選手権の覇者・スウェーデン、地元カナダ、そして、ソ連が挙げられ、混戦が予想されました。しかし、結果はソ連が戦前の予想を覆し、決勝リーグでライバルと見られたカナダ(5-0)、スウェーデン(7-1)に圧勝。最終戦のフィンランドを残して7回目の金メダルを獲得しました。なお、2位は最終戦でソ連を2-1で破ったフィンランド、3位はスウェーデンでした。
第1版:2024年9月19日・記
- <主な参考文献>
- 日本アイスホッケー年鑑 昭和62年-63年 第7号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1987-1988 No.1、3、4、5、1988-1989 No.1(発行:ベースボール・マガジン社)