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1988-1989シーズン
【1988-1989総括】
日本代表は監督が桝川順司氏から星野好男氏へ、日本ジュニア代表は岩本宏二監督から清野勝ヘッドコーチに、アジア・オセアニアジュニア代表は監督が森一彦氏から大坪利満氏へ、ユニバーシアード代表は監督が高木義久氏から飯田広文氏へ、それぞれのトップが代わり、新たなスタートを切ったシーズンとも言えました。なお、日本ジュニア代表監督は、1989-1990シーズンから小堀博久氏が就任しました。
新体制で迎えた1989世界選手権Bプールでしたが、初戦から5連敗となり、最悪の結果になるかもと思われました。しかし、その窮地から見事に立ち直り2連勝し、2勝5敗の7位でBプール残留を決めました。
1992年のアルベールビルオリンピックへのアタック第1年とした1988-1989シーズンは世界選手権Bプールにおいて中位に着け、オリンピック前年の1991年には3位以内を確保して、オリンピック出場権を獲得する計画でした。しかし、ヨーロッパ各国は盛んにテストマッチを行い、さらにはカナディアンプレーヤー(多重国籍)を補充した強化を進めており、Bプールであっても強豪ぞろいで、計画通りとはいきませんでした。
日本代表も強化は進めていました。さらなる強化を進め、次シーズン(1989-1990)ではフランス、オーストリア、東ドイツ、オランダなどには勝てるチームづくりと情報分析が不可欠でした。そして、91年には力上位のスイスやイタリアなどの一角を崩し、3位以内を勝ち取るといった、具体的な目標が必要になってくると思われました。
さらに、ジュニア層と大学生の強化、そして、発想の展開を図り画期的な強化の推進が必要かと思われました。その強化一環として、昨シーズンに続き、ソ連代表チームが1989年5月に来日。今回はチェコスロバキア代表も招聘し、日本代表を加えた大会も行いました。
この総括ではナショナルチームに関して大きく焦点を当てました。ナショナルチームの世界選手権の戦いぶりや、日本ジュニア代表、アジア・オセアニアジュニア日本代表、そして、ユニバーシアード日本代表の戦いぶりは後述します。一方、国内事業に目を向けると、第57回全日本選手権は王子製紙が、第23回日本リーグは国土計画が、それぞれ優勝を飾りました。特に、日本リーグは年々盛り上がりを見せ、事業収支においても史上最高を記録を更新中で、経常利益も高配分することができました。
【1988-1989日本代表】
2シーズン前の1987年の世界選手権の日本代表チームの平均年齢は26.4歳。このシーズンは24.8歳と1.6歳も若返った日本代表。
1989年3月30日から4月9日までノルウェー・オスロ、リレハンメルで開催された1989世界選手権Bプールに参加しました。初戦のノルウェーに4-7で敗れると、スイスに0-10、フランスに4-5、オーストリアに2-4、そしてイタリアに0-6と、まさかの5連敗。Cプール降格の危機に陥りました。しかし、東ドイツを8-1、デンマークを2-1と連破し、2勝5敗の7位となり、Bプール残留を決めました。
今大会、チーム編成を若返らせただけに、キャリア不足などからくる試合運びの不味さや小さなミスが敗戦に結びついてしまいました。しかし、これらは選手の成長や経験によって解決されると思われました。
数字上ではやっとの思いでBプール残留を決めた日本代表でしたが、優勝したノルウェーに食い下がり、フランス・オーストリアには敗れはしたものの互角以上の戦いを展開。さらに東ドイツに大勝するなど、内容的には将来につながる戦いぶりと言えました。
日本ジュニア代表は1989年3月19日から28日までフランス・シャモニーで開催された1989世界ジュニア選手権Bプールに参加しました。競技方式は前回同様、参加8カ国の総当たりリーグ戦で行われました。
日本は初戦のフランスに6-2、続くデンマークに5-4、3戦目のオランダに5-3、そして4戦目のユーゴスラビアに8-4と4連勝とポーランド、スイスとともに無傷で前半戦を折り返しました。全勝対決となった5戦目のポーランドに2-7で敗れると、続くルーマニアに1-5、そして最終戦のスイスにも5-9で敗れ、4連勝から3連敗。まさに「天国から地獄」状態。スタミナ不足が如実に現れた結果で4位に終わりました。
アジア・オセアニアジュニア日本代表は1989年2月13日から18日まで日本・八戸で行われた1989アジア・オセアニアジュニア選手権に出場しました。参加国は韓国、中国、日本の3カ国。2回戦総当たりのリーグ戦が行われ、日本は韓国に2戦2勝(8-2、12-2)、中国には5-5、7-5の1勝1分で、前回大会で失った覇権を取り戻しました。
ユニバーシアード日本代表は1989年3月2日から12日までブルガリア・ソフィアで行われたユニバーシアード冬季大会に参加しました。今回のメンバー構成は日本リーガー5名、大学生15名でした。競技方法は参加6カ国の1回戦総当たりのリーグ戦でした。
日本は初戦のフィンランドに6-8、第2戦の韓国に1-5、第3戦のアメリカに2-13、第4戦ソ連に1-16、そして、最終戦のチェコスロバキアに0-16と5敗の最下位に終わりました。なお、次回1991年大会は札幌で行われることになっています。
【1988-1989主なJIHF主催大会】
第57回全日本選手権Aグループ(1989年1月9日~1月14日@東京・国立代々木競技場、東伏見アイスアリーナ)
大会開幕2日前に昭和天皇が崩御され、大会期間中、役員、監督、選手などの大会関係者は喪章を付けての大会となりました。
試合方式は前回大会の方式から第55回大会の方式に戻され、日本リーグ6チームを3チームずつの2つのグループに分けて予選リーグを行い、それぞれ上位2チームが決勝トーナメントに進出し、準決勝は各グループの1位対2位、そして勝者が決勝で対戦する形式で行われました。
予選A組は1位・王子製紙、2位・雪印、3位・古河電工に、予選B組は1位・国土計画、2位・十條製紙、3位・西武鉄道となりました。準決勝は雪印が日本リーグとの二冠を目指す国土を7-1破り決勝進出。もう一つの準決勝は王子が十條に3-2で接戦を制しました。王子と雪印の決勝戦は王子が7-0と完勝し、日本リーグの雪辱を果たすとともに、2年ぶり26回目の優勝を成し遂げました。
第23回全日本選手権Bグループは1989年2月25日から27日まで長野・軽井沢スケートセンターで16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝で山陽国策パルプが地元の軽井沢スケートセンターを17-3で破り2年ぶり2回目の優勝を飾りました。
第8回全日本女子大会(1989年3月1日~4日@神戸・ポートアイランドスポーツセンター)
16チームが参加し、予選は4つのグループ(それぞれ4チーム)に分けそれぞれトーナメント戦、その後、各グループの1位チームによる決勝リーグ(4チームにて開催)、各グループ2位による順位決定トーナメントなどが行われました。決勝リーグでは国土計画が2勝1分で苫小牧ペリグリンと並びましたが、得失点差で2年ぶり4回目の優勝を飾りました。
第23回日本リーグ(1988年10月1日~12月25日/6チーム6回戦総当たり)
第23回日本リーグは6チームによる6回戦総当たり、ホーム&アウェイ方式が行われました。原則、各チームのホームリンクで試合は行われましたが、第22回日本リーグと同様にホームリンク以外の地方開催も6箇所で行われました。
第23回日本リーグを迎えるにあたり、長年、所属の国土はもちろんのこと日本代表の中心選手として活躍した星野好男氏が現役を引退。星野氏の引退に代表されるように、日本リーグ各チームに世代交代の波が押し寄せてきていました。昨季同様、戦国リーグとも思われた第23回日本リーグ。しかし、結果は違っていました。国土が4試合を残して3年ぶり4回目の優勝を成し遂げました。GK・DF陣だけではなくFW陣も守りの意識が高く、守りを重視し、防御から攻撃へ。「守りの国土」を遺憾なく発揮しての優勝でした。
第44回国民体育大会(1989年1月28日~31日@北海道・帯広)
成年の部は28都道府県が参加し、決勝戦で北海道が埼玉を5-1で破り9年ぶり22回目の優勝を飾りました。少年の部では14都道府県が参加し、決勝戦で北海道が栃木を6-1で破り、昨シーズンの雪辱を果たすとともに2年ぶり39回目の優勝を成し遂げました。
第61回日本学生氷上競技選手権・インカレ(1988年12月19日~23日@日光・電工リンク他)
29校が参加。決勝戦は2回戦で同志社、準々決勝で東海、準決勝で日本大を破った明治と、2回戦で関西学院、準々決勝で早稲田、準決勝で東洋を破った法政が対戦。明治が5-2で勝利し、2年連続18回目の優勝を成し遂げるとともに、秋の関東大学リーグ戦との二冠を達成しました。
なお、インカレは第45回大会から日光市で開催を続けてきましたが、次回の第62回大会は苫小牧で行われることになりました。
第38回全国高校選手権・インターハイ(1989年1月16日~20日@長野・軽井沢スケートセンター)
26校が参加。決勝は釧路江南と釧路工業の釧路勢同士顔合わせになりました。釧路江南は1回戦で渋川工業、2回戦で八戸西、準々決勝では2回戦で前回の覇者・駒大苫小牧を破った釧路短大附を、そして準決勝で八戸商業に勝利し勝ち上がりました。一方、釧路工業は2回戦で軽井沢、準々決勝は日光、準決勝で八戸工大一を破り決勝へ進出しました。決勝戦は釧路工業が釧路江南を5-3で下し、2年ぶり4回目の優勝を飾りました。
第9回全国中学校競技大会(1989年2月3日~5日@八戸・新井田)
14チームが参加して行われ、決勝は苫小牧和光と苫小牧明倫の「苫小牧対決」となり、和光が明倫を7-4で破り7年ぶり2回目の優勝を飾りました。
第13回全日本少年競技会(1989年3月27日~31日@東京・品川プリンスホテルアイスアリーナ)
小学生の部(現・風越カップ全日本少年大会小学生の部)
12チームが参加。苫小牧選抜は2回戦でホリデーイン京都IHC、準決勝で帯広選抜を破り決勝進出。釧路選抜は2回戦で東京都選抜A、準決勝で八戸ホワイトベアーズJrを破り決勝へ進出してきました。決勝では苫小牧選抜が3-2で勝利し、6年連続12回目の優勝を飾りました。
中学生の部(現・全日本少年大会中学生の部)
12チームが参加。2回戦で帯広選抜、準決勝で栃木県選抜を破った苫小牧選抜と、2回戦で千葉Jrペンギンズ、準決勝で青森県選抜を破った釧路選抜との間で行われました。決勝では苫小牧選抜が釧路選抜を4-2で破り、2年連続6回目の優勝を成し遂げました。
【その他の大会・出来事】
「ジャパンカップ・89スーパーアイスホッケー」(1989年5月23日〜28日@東京・品川プリンスホテルアイスアリーナ)
「ソ連とチェコスロバキアが日本で直接対決」。カナダなどと並ぶアイスホッケー大国であるソ連とチェコスロバキアの直接対決が日本で実現しました。
ソ連、チェコスロバキア、そして日本代表によるに「ジャパンカップ・89スーパーアイスホッケー」が1989年5月23日から28日まで、2回戦総当たり方式で行われました。日本代表がソ連やチェコスロバキアに胸を借りる試合にも関心が集まりましたが、それ以上に、「ソ連対チェコスロバキア」の世界強豪国の対戦が日本戦以上に注目され、直接対決の2試合は立見が出るほどの大盛況。関心の高さを物語っていました。大会結果は次の通りです。
チェコスロバキア 7-1 日本<1P(4-1)2P(2-0)3P(1-0)>
ソ連 3-3 チェコスロバキア<1P(2-1)2P(1-0)3P(0-2)>
ソ連 10-1 日本<1P(5-0)2P(4-0)3P(1-1)>
チェコスロバキア 6-3 日本<1P(2-0)2P(2-1)3P(2-2)>
ソ連 2-2 チェコスロバキア<1P(0-1)2P(1-1)3P(1-0)>
ソ連 10-6 日本<1P(4-0)2P(2-4)3P(4-2)>
第1版:2024年9月19日・記
- <主な参考文献>
- 日本アイスホッケー年鑑 昭和63年-平成元年 第8号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1988-1989 No.1、3、4、5、6、1989-1990 No.1(発行:ベースボール・マガジン社)