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1990-1991シーズン
【1990-1991総括】
1990-1991シーズンは、1992年2月に開催されるアルベールビルオリンピックの出場権をかける重大なシーズンでした。日本は1980年のレークプラシッドオリンピックへの出場を最後にオリンピック出場を果たせていませんでした。
アルベールビルオリンピックに出場するためには1991世界選手権Bプールにおいて4位以内の成績を収めることが絶対条件でした。そのため、あらゆる事業の施策をこの1点に絞って対策を講じました。
第25回日本リーグでは初めてプレーオフ制を導入。さらに全日程も1990年12月で終了しました。また第59回全日本選手権は日本代表の強化とオリンピック出場権獲得の願いを込めて、次年度へ延期しました。
これらの結果、1991年1月4日に日本代表を編成し、延べ36日の国内強化合宿と、カナダ・カルガリーとソ連・モスクワへの2回の海外合宿を行いました。しかし、結果は1分6敗の最下位に終わり、オリンピック出場は夢と消えました。
オリンピックは4年に1度行われていますが、冬季オリンピックと夏季オリンピックを同一年に行うのではなく、2年ごとにオリンピックが行われることにするため、冬季オリンピックは5年後の1996年ではなく2年後の1994年にノルウェー・リレハンメルで開催することになっていました。そのため、リレハンメルオリンピックの出場権獲得には1993年の世界選手権が第一関門になることが予想されました。時間的余裕は余りない中で強化を進めなければならないことは間違いありませんでした。
ヨーロッパ各国がカナディアン選手による補強を行うなどの事情があるにせよ、オリンピックの出場権獲得もままならず、さらに世界選手権においても、1970年代後半のようにAプール入り一歩手前といった好結果をなかなか上げられず、世界の中で厳しい戦いを余儀なくされていた日本。しかし、91年6月15日、朗報が飛び込んできました。イギリス・バーミンガムで行われていた国際オリンピック委員会総会で1998年の長野オリンピック開催が決定されたのでした。
開催国として、無条件で出場できる光明が差し込んできました。これを機会に全力を挙げ、選手強化の立て直しを図り、画期的な飛躍につなげることが命題となりました。
【1990-1991日本代表】
1992年のアルベールビルオリンピック出場権獲得を目指した日本代表。前述の通り、全日本選手権の開催を次年度に延ばすなど、代表チームの編成を早期に行い、国内合宿や海外合宿を1991年1月から行い、3月28日から4月7日までユーゴスラビア・リュブリャナ、イェセニツェで行われた1991世界選手権Bプールに臨みました。
この大会はアルベールビルオリンピックの予選を兼ねており、オリンピック出場の条件は
1. オリンピックの開催国であるフランスを除く上位2位までは自動的に出場決定
2. 3位(フランスを除く)はCプール1位とのプレーオフ
以上となっており、3位までになることが最低条件でした。
また、オリンピック出場権獲得に加え、もう一つの目標もありました。1992年の世界選手権からAプールの枠が8カ国から12カ国に増えることになっていました。そのため、4位までに入れば、日本の悲願であるAプール入りが達成できるのでした。
オリンピック出場とAプール入りの2大目標を目指した日本。初戦のオーストリアに2-2と引き分けたもの、その後は、イタリアに1-7、ノルウェーに1-6、フランスに3-5、オランダに1-2、ユーゴスラビアに1-5、ポーランドに0-7と6連敗。1分6敗の最下位に終わり、オリンピック出場とAプール昇格を勝ち取ることはできませんでした。
日本ジュニア代表は1990年12月27日から1991年1月5日までポーランド・ティフィで行われた1991世界ジュニア選手権Bプールに参加しました。日本は初戦のオーストリアに6-1と白星発進。続くフランスに4-4と引き分けましたが、ルーマニアに7-0、オランダに4-2と前半を無敗(1分)の好スタートを切りました。しかし、第5戦のドイツに4-7、第6戦のポーランドに2-7と連敗と急ブレーキがかかってしまいました。最終戦は持ち直しデンマークに7-1と勝利。結果、4勝1分2敗の4位とあと一歩でメダルを逃しました。
アジア・オセアニアジュニア日本代表は1991年3月3日から9日まで中国・吉林で行われた1991アジア・オセアニアジュニア選手権に出場しました。参加国はオーストラリアが辞退し、中国、韓国、北朝鮮、初参加のメキシコ、そして日本の5カ国で、1回戦総当たりのリーグ戦が行われました。日本はメキシコに43-0、北朝鮮に7-1、韓国に7-0と3連勝。最終戦では中国と全勝対決となり、完全アウェーの中、5-5と引き分け、得失点差で優勝を成し遂げました。
ユニバーシアード日本代表は1991年3月2日から10日まで(試合は3日〜9日)、札幌(会場は月寒体育館と真駒内アイスアリーナ)で行われたユニバーシアード冬季大会に参加しました。日本のメンバー構成は日本リーガー5名、大学生17名でした。大会参加国はソ連、カナダ、アメリカ、フィンランド、韓国、北朝鮮、日本の7カ国。この7カ国を前回大会の順位によりA・Bの2つのグループに分けて予選リーグを行い、各グループの上位2カ国で(計4カ国)決勝リーグを、それ以外で順位決定リーグが行われました。日本は予選リーグをBグループで戦い、初戦のカナダに1-10、第2戦のフィンランドに1-6で敗れ、順位決定リーグに回りました。順位決定リーグでは韓国に11-3、アメリカに3-3。最終順位は6位に終わりました。
【1990-1991主なJIHF主催大会】
第59回全日本選手権Aグループ
アルベールビルオリンピック出場権獲得を目指し、日本代表強化などのため次年度に大会を延期しました。
第25回全日本選手権Bグループは1991年2月14日から17日まで山形・山形スケートセンターなどで15チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝でグリーンメイトが山陽国際パルプを4-0で破り2年連続2回目の優勝を飾りました。
第10回全日本女子選手権(1991年2月22日~24日@兵庫・神戸ポートアイランドスケートセンター)
16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝に駒を進めたのは、1回戦で中日パピーレディス、準々決勝で後楽園、準決勝で釧路ベアーズを破った苫小牧ペリグリンと、1回戦でホリデイイン京都ギャルズ、準々決勝で八戸レディース、準決勝で帯広太陽を破った国土計画苫でした。決勝で苫小牧ペリグリンは8-2で国土計画を下し、3年ぶり3回目の栄冠を手にしました。
第25回日本リーグ(レギュラーリーグ:1990年9月19日~12月9日・6チーム6回戦総当たり/プレーオフ:12月15日〜24日・5試合3戦先勝方式)
第25回日本リーグは大改革が行われました。これまでなかったプレーオフ制度を採用しました。プレーオフに進出できるのはレギュラーリーグ3位までのチーム。但し、3位チームは1位との勝ち点差が10点以内の場合でした。さらに延長戦も導入されました。第3ピリオド終了時点で同点の場合、サドンデス方式により5分間の延長戦が行われ、なおも同点の場合、引き分けとなりました。
レギュラーリーグはこれまで同様に6チームによる6回戦総当たり、ホーム&アウェイ方式で行われました。第20回日本リーグ以降、王子製紙と国土計画が1、2位を占め、マッチレース的な展開となっていた日本リーグ。プレーオフ制の導入により3位チームに優勝のチャンスがあるだけに、他の4チームの戦い方によっては、大きな影響が生じるのではとも考えられました。
レギュラーリーグ中盤以降、特に残り10試合を切ってからはプレーオフ進出の行方が、国土と王子、そして、十條製紙の3チームの試合結果によって目まぐるしく変わりました。結果は最終日の90試合目までもつれ、3位の十條は1位国土との勝ち点差が11となり、1点及ばずプレーオフ進出が夢と消えました。
レギュラーリーグ1位・国土と2位・王子と争われたプレーオフ。2勝2敗と両チーム一歩も譲らず第5戦まで激闘を展開。最終戦で王子が4-3で勝利し、2年連続12回目のリーグの覇権を手にしました。
第46回国民体育大会(1991年1月27日~30日@長野・軽井沢)
成年の部は28都道府県が参加し、決勝戦で東京が北海道を7-5で破り2年連続13回目の優勝を飾りました。少年の部では14都道府県が参加し、決勝戦で北海道が栃木を8-3で破り3年連続41回目の優勝を成し遂げました。
第63回日本学生氷上競技選手権・インカレ(1990年12月21日~24日@青森・八戸)
30校が参加。決勝戦は1回戦で北海学園、2回戦で横浜国立、準々決勝で前回王者の法政、準決勝で日本大を破った早稲田と、2回戦で青山学院、準々決勝で慶應義塾、準決勝で東洋を破った明治が対戦。早稲田が4-3で勝利し、24年ぶり13回目の優勝を成し遂げました。
第40回全国高校選手権・インターハイ(1991年1月17日~20日@山梨・富士スバルランド他)
26校が参加。決勝は駒大苫小牧と釧路短大附の前回大会と同じ顔合わせになりました。駒大苫小牧は2回戦で八戸工大一、準々決勝で八戸商業を、そして準決勝で苫小牧東に勝利し勝ち上がりました。一方、釧路短大附は2回戦で白樺学園、準々決勝は八戸工業、準決勝で釧路江南を破り決勝へ進出しました。決勝戦は駒大苫小牧が8-3で勝利し、2年連続11回目の優勝を飾りました。優勝回数11回は最多記録(当時)となりました。
第11回全国中学校競技大会(1991年2月2日~5日@岩手・県営スケート場他)
12チームが参加して行われ、決勝は釧路鳥取と苫小牧和光の対戦となり、釧路鳥取が6-4で破り2年連続3回目の優勝を飾りました。
第15回全日本少年競技会(1991年3月27日~30日@北海道・釧路春採アイスアリーナ、十條スケートセンター)
小学生の部(現・風越カップ全日本少年大会小学生の部)
12チームが参加。帯広選抜は2回戦で札幌選抜、準決勝で釧路選抜Aを破り決勝進出。苫小牧選抜は2回戦で八戸南Jr、準決勝で釧路選抜Bを破り決勝へ進出してきました。決勝では帯広選抜が4-1で勝利し、初優勝を飾りました。
中学生の部(現・全日本少年大会中学生の部)
12チームが参加。2回戦で東海信越選抜、準決勝で帯広選抜を破った釧路選抜Aと、2回戦で釧路選抜B、準決勝でPS線の末に札幌選抜を破った苫小牧選抜との間で行われました。決勝では釧路選抜が苫小牧選抜を3-2で破り、2年連続9回目の優勝を成し遂げました。
【その他の大会・出来事】
ルール改正
1991年4月に行われた国際アイスホッケー連盟(IIHF)総会で国際協議規則(ルール)が改正されました。改正点は70余りありますが、今回の改正は
①ペナルティーに関する罰則強化により負傷者を防ぐ
②競技の進行を早める
③少人数での競技時間を少なくする
以上が主な目的でした。具体的例を挙げますと、
・メジャーペナルティを課せられるとゲームミスコンダクトを付加
・アイシングザパックに関してはゴールラインを割ったら自動的に成立
・オフサイドの改正
・一方が1名少人数での状態で同数の反則者が出た場合、交代者を氷上に出し5対4で再開
などでした。
このルール改正を受け、1991年9月5日から7日までレフェリークリニックも開催され、新ルールの徹底統一が図られました。
第1版:2024年9月19日・記
- <主な参考文献>
- 日本アイスホッケー年鑑 平成2年-平成3年 第10号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1990-1991 No.1、3、4、5、6(発行:ベースボール・マガジン社)