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1991-1992シーズン
【1991-1992総括】
1991-1992シーズンの幕開け前に飛び込んできた「1998年に長野でオリンピック開催」の決定の報。日本にアイスホッケー界に大きな希望の光が灯ったと同時に、このまま止まっていられない状況下に置かれました。
1991-1992シーズンはオリンピックイヤーでしたが、アルベールビルオリンピックに参加ができず、残念な状態でしたが、長野オリンピック開催が決まったこともあり、かねてから関係各位から指摘されていた国際的視野に立った新しい日本型アイスホッケーの確立を目指し、ジュニア強化を中心に長期計画を作成しました。
1991年8月に記載された「フェニックスカップ」(後述)もその一環でした。また長野を意識した若年層の強化では、日ア連コーチ、大学コーチ、高校コーチなど、指導者に対しても一本筋を通すべく、風通しの良い関係をつくり、北海道を中心とする高校生、東京を中心とする大学生の通年強化計画がスタートしました。
これまで以上に若年層の強化に関して注力する新たなるスタートを切ったシーズンでした。その矢先、日本ジュニア代表が悲願達成をしました。1992世界ジュニア選手権Bプールにおいて、初参加(1982年)から11年目にして初めて優勝を勝ち取り、Aプール昇格を決めたのでした。さらにこの吉報にと止まらず、次シーズンを見据え、Aプール残留を目標に、清野勝監督、若狭浩嗣・田中幹人両コーチのスタッフ3名と守屋英樹レフェリーを1992年4月にノルウェーで行われた1992ヨーロッパジュニア選手権Aプールへ視察派遣しました。また、大学生の強化としては「長野プロジェクト学生強化」の一環として1992年3月8日から19日までカナダ・カルガリーで強化合宿などを実施しました。
日本代表は、日本リーグ優勝チームのコクドを中心にチーム編成し、若林仁コクド監督が指揮を執り、世界選手権Bプールに参加。結果は4勝3敗の3位でした。また日本リーグの5チームの監督も大会視察しました。次シーズンへ向け協議した結果、単独チームではなく、その時点で可能な最強チームを編成を検討する方向が打ち出されました。
レフェリーの面でも世界のトップレベルのチェコのウラジミール・シュバート氏を2カ月間招き、日本リーグやインターハイなど、実際に上を拭いてもらうのはもちろん、セミナーを開催し、日本のレフェリーのレベルアップを図りました。
【1991-1992日本代表】
1980年、1984年、1988年と過去3回はオリンピックイヤーに世界選手権は開催されませんでした。しかし1992年からオリンピックイヤーでの世界選手権開催が復活しました。
1992年4月2日から12日までオーストリア・クラーゲンフルトとフィラハで行われた1992世界選手権Bプールに日本代表は参加しました。今回のメンバーは、事前の申し送り(取り決め)により第26回日本リーグ優勝チームを中心とした編成になりました。その内訳はコクド16名(GK2名、DF4名、FW10名)王子製紙4名(GK1名、DF2名、FW1名)、西武鉄道2名(DF1名、FW1名)、雪印1名(DF1名)の23名でした。
1991-1992シーズンの世界選手権からAプールが8カ国から12カ国となり、昨シーズンのBプール上位4カ国がAプール昇格したため、日本より上位の国がいなくなりました。またCプールから4チームが勝ち上がり、前回Bプール8位に終わった日本にとっては昨シーズンまでとは異なり、有利な戦いができる国々かと思われました。
さて日本の戦いぶりですが、初戦の相手は前年度Cプール1位だったデンマーク。4-2と幸先の良いスタートを切りましたが、第2戦のブルガリア(前季C4位)に2-5とまさかの敗戦。3戦目のルーマニア(同C3位)に5-1、第4戦の中国(同2位)に10-2と連勝し、3勝1敗で前半戦を終えました。第5戦のオーストリア(同B5位)に0-3と敗れ、続くユーゴスラビア(同B6位)に6-0と勝利。最終戦のオランダ(同B7位)に3-10と敗れましたが、4勝3敗の3位となり、Bプールでのメダル獲得は1978年の銀メダル以来となりました。
世界選手権Bプールより3カ月ほど前、1992年1月15日から19日まで第1回アジアカップが、中国、韓国、北朝鮮、そして日本の4カ国が参加して帯広で開催されました。この大会は1991年2月に開かれる予定でしたが、湾岸戦争のため延期になっていました。予選リーグを日本は韓国を5-3、北朝鮮を5-4、中国に8-2と3連勝。予選リーグ1位と2位の対戦となる優勝決定戦でも中国を9-2で破り、1986年と1990年に行われた冬季アジアで中国に敗れ、明け渡していたアジア位の盟主の座を奪回しました。
日本ジュニア代表は1991年12月27日から1992年1月5日まで、前回と同じポーランド・ティフィで行われた1992世界ジュニア選手権Bプールに参加。悲願であった優勝を勝ち取り、Aプール昇格を決めました。
初戦のルーマニアに3-2、続く北朝鮮に9-1と2連勝スタートした日本でしたが、3戦目のオーストリアに2-3と惜敗。4戦目のオランダに5-2と勝ったものの、第5戦のノルウェーに2-4で敗れ、優勝は遠のいたかとも思われました。しかし、ポーランド、ノルウェー、フランスも星を取りこぼすなど、波乱が起きました。日本は残り2試合で当面の敵であったポーランドに7-4、フランスに4-2と連勝、5勝2敗で全日程を終えました。
今大会は大混戦で、日本、ポーランド、ノルウェー、フランスの上位4カ国が5勝2敗で並んだため、優勝の行方は、
①当該チーム間の中での勝点
②当該チーム間(今回は4カ国)の得失点差
③当該チーム間(今回は4カ国)の得点率(総得点を総失点で割り、商が大きくチームが上位)
までもつれました。
①で日本、ポーランド、ノルウェー、フランスの当該チーム間の結果、日本、ポーランドが2勝1敗、ノルウェー、フランスが1勝2敗で、ノルウェーとフランスが脱落。
優勝争いは日本とポーランドに絞られ、
②で日本は得点13、失点10。ポーランドは得点14、失点11。得失点差はともに3。
日本とポーランドの得点率の争いとなり、
③で、日本は1.30、ポーランドは1.27
0.03の差で日本が悲願の初優勝を果たしたのでした。
アジア・オセアニアジュニア日本代表は1992年3月16日から22日まで日本・釧路で行われた1992アジア。オセアニアジュニア選手権に出場しました。参加国は北朝鮮、中国、韓国、オーストラリア、そして日本の5カ国で、1回戦総当たりリーグ戦の試合方式で行われました。日本はオーストラリアに20-0、韓国に9-1、北朝鮮に2-2、中国に5-0と3勝1敗で、北朝鮮と勝ち点は並びましたが、総得失点差で上回り、覇権の座を守りました(4年連続8回目の優勝)。
1990年の第1回世界女子選手権にはアジア代表として出場した女子日本代表。1992世界女子選手権では、アジア地区代表予選が行われることになりました。1992年1月1日から3日まで中国・ハルビンで中国と2試合行い0-10、3-7と2連敗に終わり、出場権獲得はなりませんでした。
【1991-1992主なJIHF主催大会】
第59回全日本選手権Aグループ(1992年3月3日~8日@苫小牧・王子スケートセンター、札幌・真駒内)
前シーズン同様、日本リーグ6チームを3チームずつの2つのグループに分けて予選リーグを行い、それぞれ上位2チームが決勝トーナメントに進出し、準決勝は各グループの1位対2位、そして勝者が決勝で対戦する形式で行われました。
予選A組は雪印、西武鉄道、コクドが1勝1敗で並びましたが、得失点差により1位・雪印(得失点差+1)、2位・西武(同±0)、3位・コクド(-1)となり、第26回日本リーグを制したコクドの二冠達成は潰えました。一方、予選B組は1位・王子製紙、2位・十條製紙、3位・古河電工の順位なりました。
ところで、予選リーグにおいて三すくみになった場合の順位決定方法に関して大会規定に盲点があり、「自ゴールにシュートする自殺点によっての試合終了」といったイレギュラーの出来事が生じました。
準決勝は王子が西武を8-1、雪印が十條を2-1で破り決勝へ進出。王子と雪印とで争われた決勝は、攻守が噛み合った王子が雪印の初優勝の夢をシャットアウト。5-0で完封勝利で2年ぶり27回目の優勝を飾りました。
第26回全日本選手権Bグループは1992年2月20日から23日まで八戸・新井田インドアリンクなどで16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝で山陽国際パルプが吉田産業を10-2で破り3年ぶり4回目の優勝を飾りました。
第11回全日本女子選手権(1992年1月30日~2月2日@札幌・真駒内屋内競技場、月寒体育館)
16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝に駒を進めたのは、1回戦で梅田メイプルリーフス、準々決勝でセキスイハウスJAPO、準決勝で釧路ベアーズを破った苫小牧ペリグリンと、1回戦で八戸レッズ、準々決勝で釧路ファニーダックス、準決勝で帯広太陽を破った国土計画苫でした。決勝で苫小牧ペリグリンは2-1で国土計画を下し、2年連続4回目の栄冠を手にしました。
第26回日本リーグ(レギュラーリーグ:1991年9月28日~12月15日・6チーム6回戦総当たり/プレーオフ:12月18日〜22日・5試合3戦先勝方式)
第26回日本リーグは各チーム30試合のレギュラリーグとプレーオフ(5試合3戦先勝)で行われました。第25回日本リーグはレギュラーリーグ3位までに条件をクリアすればプレーオフ進出のチャンスがありましたが、第26回日本リーグではプレーオフに進出できるのはレギュラーリーグ1位と2位までとなりました。
第20回日本リーグ以降、王子製紙とコクドが1、2位を占め、「二強時代」を形成してきました。第26回日本リーグもそれは不変で、11月下旬にはこの2チームにプレーオフ進出が決定しました。
レギュラーリーグ1位・コクドと2位・王子と争われたプレーオフ。敵地・苫小牧で2連勝スタートとなったコクドが、本拠地・新横浜での3戦目を落としたものの、第4戦を2-1で勝ち、3年ぶり5回目の優勝を成し遂げました。
第47回国民体育大会(1992年1月26日~29日@山形)
成年の部は28都道府県が参加し、決勝戦で東京が北海道を11-2で破り3年連続14回目の優勝を飾りました。少年の部では14都道府県が参加し、決勝戦で北海道が栃木を10-3で破り4年連続42回目の優勝を成し遂げました。
第64回日本学生氷上競技選手権・インカレ(1991年12月21日~24日@北海道・帯広)
30校が参加。決勝戦は2回戦で国士舘、準々決勝で法政、準決勝で日本大を破った明治と、2回戦で京都、準々決勝で慶應義塾、準決勝で東洋を破り連覇を目指す早稲田が対戦。明治が7-4で勝利し、3年ぶり19回目の優勝を成し遂げました。
第41回全国高校選手権・インターハイ(1992年1月19日~23日@栃木・日光霧降アイスアリーナ他)
26校が参加。決勝は駒大苫小牧と釧路江南の顔合わせになりました。駒大苫小牧は2回戦で水戸短大附、準々決勝で八戸工大一、そして準決勝で釧路湖陵に勝利し勝ち上がりました。一方、釧路江南は2回戦で苫小牧工業、準々決勝は北海、準決勝で釧路工業を破り決勝へ進出しました。決勝戦は駒大苫小牧が4-3で勝利し、3年連続12回目の優勝を飾りました。
第12回全国中学校競技大会(1992年2月3日~6日@長野・軽井沢)
14チームが参加して行われ、決勝は釧路鳥取と苫小牧啓明の対戦となり、釧路鳥取が8-3で破り3年連続4回目の優勝を飾りました。
第16回全日本少年競技会(1992年3月27日~30日@福岡・県立総合プール、パピオアリーナ)
小学生の部(現・風越カップ全日本少年大会小学生の部)
10チームが参加。苫小牧選抜は2回戦で東京都選抜、準決勝で札幌選抜を破り決勝進出。帯広選抜は2回戦で栃木県選抜、準決勝で釧路選抜を破り決勝へ進出してきました。決勝では苫小牧選抜が4-2で勝利し、3年ぶり13回目の優勝を飾りました。
中学生の部(現・全日本少年大会中学生の部)
11チームが参加。2回戦で関西選抜、準決勝で札幌選抜を破った釧路選抜と、2回戦で千葉県選抜、準決勝で東京都選抜を破った苫小牧選抜との間で行われました。決勝では釧路選抜が苫小牧選抜を6-1で破り、3年連続10回目の優勝を成し遂げました。
【その他の大会・出来事】
フェニックスカップ
ジュニア強化の一環として1991年7月27日から8月4日まで横浜と札幌で行われた「91フェニックスカップジュニアトーナメント」。日本アイスホッケー界では珍しいと言える冠大会で、アメリカ、カナダ、ソ連は1974年生まれの選手で、日本は1972年生まれの選手でチーム編成をしました。カナダ、アメリカ、ソ連は次代を担う若手が日本に集合ということで、NHLのスカウト陣も多数来日、有望選手のスカウティングに余念はありませんでした。試合方式は2回総当たりのリーグ戦で行われ、1位・ソ連(5勝1敗)、2位・カナダ(3勝2分1敗)、3位・アメリカ(4分2敗)、4位・日本(2分4敗)の順位となりました。日本の試合結果は次の通りです。
日本 1-5 ソ連<1P(0-3)2P(1-1)3P(0-1)>
日本 4-9 カナダ<1P(1-3)2P(1-3)3P(2-3)>
日本 6-6 アメリカ<1P(3-1)2P(2-1)3P(1-4)>
日本 2-4 ソ連<1P(0-1)2P(1-2)3P(1-1)>
日本 1-13 カナダ<1P(0-4)2P(1-4)3P(0-5)>
日本 1-2 アメリカ<1P(0-1)2P(1-1)3P(1-0)>
アルベールビルオリンピック
1992年2月8日から23日までフランスで開催されたアルベールビルオリンピック。参加12カ国を6カ国ずつの2組分けて1次リーグを行い、各組上位4カ国(計8カ国)が決勝トーナメントに進み、金メダルをかけた戦いを繰り広げました。
アルベールビルオリンピック前のカルガリーオリンピックまでのオリンピックで7回、世界選手権Aプールで19回、金メダルを獲得してきたソ連は、ソ連の崩壊に伴い、アルベールビルオリンピックではEUN(注)として参加しました。
戦前の大方の予想では、カナダとEUNの優勝争いとの声が大勢を占めていましたが、結果はその通り。1次リーグB組を1位で通過したカナダ、2位通過のEUNは、決勝トーナメントでも実力を発揮。カナダは準決勝のドイツ戦ではPS戦までもつれましたが勝ち上がり、準決勝でチェコスロバキアを4-2で退け決勝進出。一方EUNは準々決勝でフィランドを5-1、準決勝でスウェーデンを5-2で下し、決勝に駒を進めました。EUN対カナダの決勝は両者一歩も譲らず、0-0のまま勝負は第3ピリオドへ。EUNが2点を先行し、カナダに1点差まで寄られたもののダメ押し点目を奪い、3-1で制しオリンピックで8回目(ソ連時代を含む)の金メダル獲得となったが、選手たちはこれまで見せたことがない喜び方であり、「CCCP」がないユニホームの選手たちから胴上げされたビクトル・チーホノフ監督も過去に見たことがない喜び方だった。
注:EUNはIOCの国名コード。旧ソ連のバルト三国を除く12カ国によって編成された統一選手団。当時、「CIS(独立国家共同体)・旧ソ連」との表記もありました。
第1版:2024年9月19日・記
- <主な参考文献>
- 日本アイスホッケー年鑑 平成3年-平成4年 第11号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1991-1992 No.1、4、5、6、7、8(発行:ベースボール・マガジン社)