古河電工アイスホッケー部創部100周年

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歴史を飾ったチーム探訪 第1回 ~古河電工~

古河電工アイスホッケー部OB懇親会@日光事業所食堂
古河電工アイスホッケー部OB懇親会に参加メンバーの集合写真 写真:山中美光

日本最古のチームとして73年の活動  -全日本選手権優勝4回の黄金期と日本リーグで1分29敗の低迷期-

1925年(大正14年)、日本最古のチームとして産声を上げた古河電工。日本のアイスホッケー界の黎明期は大学勢や王子製紙などと覇権争いを展開した。太平洋戦争時の活動中止を経て、戦後の昭和20年代後半から30年代前半には全日本選手権で2連覇を含め4回の優勝を飾るなど黄金時代を築いた。
その後、1966年(昭和41年)に日本リーグがスタートすると上位進出はままならず低迷期が続いた。1995年(平成7年)の第30回日本リーグで4位と躍進したのを境に黄金時代復活に向けの回復基調に入っていたが、会社の業績悪化などにより1999年(平成11年)に惜しまれつつ廃部となり、活動にピリオドを打った。
廃部から20余年の月日が流れた2025年(令和7年)、古河電工は創部100周年を迎えた。日本最古のチームの歴史を振り返る。 <敬称略>

年齢や世代、先輩・後輩などの垣根を越え、思い出話に花が咲いたOB懇親会

2025年9月14日、古河電工日光事業所校内食堂において、「ある集まり」が行われた。
その集まりの話に耳を傾けると、「全日本(選手権)で優勝した時は……」「休部が終わった時は、部員が少なくてね……」「連敗を止めて王子に勝った時は……」「29連敗の時は最悪。何をやっても……」「(日本リーグで)4位になった時は、試合をやっていて……」などなど、シーズンや大会はもちろんこと、ある試合のことや試合のある瞬間を振り返りながら、時の経つのを忘れ、思い出話に花が咲いていた。
話の主なベースは参加者たちの古河電工アイスホッケー部に関する記憶。年齢や世代、先輩・後輩などといった垣根を越えた話題に、会話は弾んだ。
「ある集まり」とは、古河電工アイスホッケー部OB懇親会である。

1925年に産声を上げた古河電工アイスホッケー部は、2025年に創部100周年を迎えた。
時計の針を少し戻すと、1年前の2024年のある日、HC栃木日光アイスバックスの主催で古河電工アイスホッケー部創部100周年を記念するイベントが企画されており、OBの方々にも参加をしてもらいたいという話がOB会へ寄せられた。それを受けOB会代表の山本久男が、日光事業所所長の高松一弘などに「アイスバックスが催すイベントにあわせて、OBらを集めて懇親会をやりたい」といった相談を持ち掛けた。高松は、加藤茂や大津英人と協力し、どこまで、誰に声をかければよいかなどを、山本、菱沼正幸、門馬信男、佐藤欣三、北海道在住の柴田清典などのOBらと相談。その結果、健在の全員にアポイントを取り、来られる人はみんなに来てもらうことになった。
健在の人に声をかけるといっても、30年前に70周年の会を開催したのを最後に、その後は何も行っていなかったため、多くのOBの連絡先すら分からなかった。そこで、まずは連絡先が分かる全国にいるOBに声をかけた。そして、その地域にいるOBの方々が健在であるか否かの確認作業から始め、その後は住所・連絡先を調べ、出欠の確認、移動手段の手配など、加藤、高松、大津、矢崎知美らが中心となり、さらにはOBや後輩らの協力を得て準備を進め、この日を迎えたのであった。

OB懇親会に参加したのはOBら70余名。OB会を代表して山本の挨拶で会の幕が開いた。その後、佐藤による乾杯の音頭が続き、冒頭のように、思い出話で盛り上がった。そして、会の終盤には、古河電工のホームゲームではリンクアナウンサーも務めた菱沼弘子が参加メンバーをリンクアナウンスの再現で紹介。そして、参加者の集合写真を撮影し、第1ピリオド(OB懇親会)は盛況の中、終了のブザーが鳴った。
OB懇親会の準備を進めた加藤は「全国各地にいるOBが集まる機会は、もしかすると、これが最後になるかもしれません。そういった意味ではこの会を開いて良かったかと思います。みんなが肩を抱き合い、30や40も歳が違う人たちが和気あいあいと話し合う場をつくれたことは良かったです。古河電工だから、これだけの人が集まったのかなといった気持ちもなくはないです。もうちょっと良いやり方もあったかもしれませんが、ボクたちができる範囲でやったのがこの会です」と振り返った。
第1ピリオドは終えたが、場所を変えて第2ピリオド(2次会)に突入。時の経つのを忘れ第2ピリオドも盛り上がり、日光の夜は更けていった。
そして、翌15日の第3ピリオド(創部100周年記念式典・パーティー)へと続いた。

戦前の全日本選手権では3回の準優勝が最高成績

1925年に産声を上げた古河電工アイスホッケー部。それから100年、2025年に創部100周年を迎えたその歴史を振り返ると……。
1906年(明治39年)に古河電工日光精銅所は創立された。従業員のリクレーションに注意を払い、武道や野球などスポーツ活動も奨励した。
日光という土地柄、寒い冬をいかに過ごすかも課題であった。1913年(大正2年)、さまざまの文献を研究した結果、鈴木常三郎精銅所所長がスケートに目を付けて清滝観音前にリンクを作った。
その後、1922年(大正11年)には精銅所内にある長さ70メートル、幅30メートルの和楽池を利用してスケートリンクとした。これが本格的なスケートの始まりであった。同時にフィギュアを主としたスケート部も誕生した。
和楽池でのスケートは人気を博し、スケートをする人が増えた。1924年(大正13年)には、新しいリンクが計画された。そして、1925年、200坪の水沢のリンクを400坪に拡大して、コンクリートリンクに改造。同年12月にリンク開きを行った。
同時に和楽池リンクでチームを結成、古河電工アイスホッケー部が誕生した。チームメンバーは上達した従業員を選抜した。監督や世話人には会社の中堅社員が当たり、練習は退所後、しかもリンクの一般滑走終了後、20時から22時ごろまでに行われた。昼間は働き、夜遅くなってからの練習は当時でも並大抵ではなかった。企業スポーツの練習の在り方は、会社や競技によってさまざまであるが、就業後の練習のスタイルは、現在でも少なくない。
翌1926年(大正15年)、東京国技館で開催された競技会に参加。初めての遠征であるとともに、人造氷でできたリンクを体験した。
1930年(昭和5年)には日光で開催された第1回全日本選手権に参加した。全日本選手権は戦前では第13回大会は開催中止となったが、1943年(昭和18年)の第14回大会まで行われた。戦前は慶應義塾大学や満州医科大学、早稲田大学、立教大学、明治大学といった大学全盛期の中、古河電工は優勝こそできなかったが、第3回大会、第7回大会、第8回大会では準優勝を飾った。

ところで、1932年(昭和7年)12月には、細尾にアイスホッケーリンク2面、その周囲に500メートルのスピードスケートのコースが取れる東洋一の大リンクが完成した。このリンクに併せるかのようにユニホームのマークも「N・C・W(ニッコウ・カパー・ワークス)」日光精銅所となった。
その後、全日本選手権の開催ができなくなったように太平洋戦争が勃発すると、アイスホッケーは中断され、水沢リンクも物置場となった。水沢リンクの再開は1950年(昭和25年)の冬まで待たなければならなかった。

リンクの様子
スケートリンクとして使用されていた時代の工場敷地内の和楽池 写真:古河電工アイスホッケー部60年誌より
池の様子
現在の和楽池。ここで古河電工アイスホッケー部が誕生 ©JIHF

五輪メンバー不在の「留守部隊チーム」で全日本選手権連覇達成

1945年(昭和20年)に第2次世界大戦が終わり、戦後復興が始まった。戦時中、大会などを中止して活動を停止していたアイスホッケー界も活動を再開。1947年(昭和22年)に再開された第15回全日本選手権に参加し、活動を始めた。
戦前では大学勢が全盛であったが、戦後は勢力図が変わり、苫小牧製紙(当時。後の王子製紙)や岩倉組といった北海道勢が台頭。古河電工は歯が立たなかった。
1951年(昭和26年)、清水勇二郎監督は「北海道勢を破り、全日本選手権のタイトルを勝ち取ろう」と決心。会社トップもそれに同意し、それまで以上にチーム強化を進めた。当時は従業員(工員)から選手を選抜して育てていた。だが、スキルのある選手をそろえるため、大学卒の有力選手を入部させ、3年計画の強化策に着手した。ちなみに、チーム名も「精銅所」から「古河電工」と変更されたのも、1951年であった。
強化を進めた1953年(昭和28年)、日光で行われた第21回全日本選手権において、準決勝で王子製紙を、決勝で岩倉組を破り悲願の初優勝を成し遂げた。古河電工の第一期黄金時代の到来と言えた。

その後、全日本選手権の覇権はなかなか手にすることはできなかったものの、有望選手も続々と入部した。日本が戦後の復活出場となった1957年のモスクワで開催された世界選手権。王子製紙と古河電工の選手が主力メンバーとして日本代表を構成した。古河電工から8選手が選ばれた。この時のメンバーが「ローリング戦法」の技術を日本に持ち帰り、チームに取り入れた。また1957年(昭和32年)には日本初のパイピングの古河電工リンクが完成。当時としては最新の施設で、早い段階から氷上練習が行うこともできた。これらがマッチして、第二期黄金時代(全日本選手権連覇)につながったと言えよう。
第27回全日本選手権(1959年・昭和34年)では決勝で全明治大学を破り、6年ぶり2回目の栄冠を手にした。翌年(1960年・昭和35年)の第28回全日本選手権では決勝で王子製紙を破り連覇を達成した(通算3度目の優勝)。
連覇を達成したこのチームは「留守部員チーム」とも言われた。この年はアメリカ・スコーバレーでオリンピックが開催。第27回大会の優勝が評価され、古河電工から9選手が日本代表入りしていた。主力不在であったが、優勝経験者と新人らが見事に融合し「王子有利」の前評判を覆しての連覇達成であった。

選手の姿
1960年スコーバレーオリンピックに出場した際の入江淳夫選手 写真JIHF所蔵
練習の様子
昭和34年 練習の様子(古河電工リンク) 左から本間、山田、山本、島田、入江、大柿 写真:古河電工アイスホッケー部60年誌より
集合写真
昭和37年全日本選手権優勝(古河電工リンク) 前列左から山田、柏木、本間、赤沢、村上、入江 後列左から瀬川(昭)、大柿、星野、島田、岡本、山本、瀬川(広)、瀬川(嘉)、清野 写真:古河電工アイスホッケー部60年誌より

「あの日・あの時」山本久男(1958年度入部)
私が古河入りした時に、スコーバレーオリンピックに9人が選ばれて、1960年に残留軍で優勝したのです。翌1961年はオリンピックメンバーが戻っていたので、楽に勝てると思ったら、全日本選手権で負けたのです。古河の単独チームで世界選手権に行けるのがダメになりました。
当時強かったのは岩倉でしたね。(岩倉の)佐藤眞弘さんが一番嫌だったので、私とDFで組んだ島田(繁)さんやGKの本間(敏栄)さんから、「押さえろ」と言われました。佐藤さんは浮いていてブルーラインにいるのです。そこから動き出してセンターラインでパスをもらってノーマークで決めるのです。そこで島田さんは動きを読んで、「眞弘があそこにいるのだから、オレが寄った時は真ん中にいろ。真ん中にいれば早く戻れるはずだから」と指示も出ました。
また、練習でスライディングもやらされました。当時の防具は粗末でしたから、シュートを受けて生爪をはがすなど、痛かったですが一生懸命やりましたよ。怒られ、怒られ、無我夢中でやりました(笑)。優勝した時は本当にうれしかった。

経営難による1年間の休部、その後のチーム力に影

1961年(昭和36年)は全日本選手権の覇権を逃し、連覇はストップした。しかし、全盛期はまだまだ続いた。1962年(昭和37年)と1963年(昭和38年)には、獲得タイトルは異なるが、三冠を達成。まさに第三期黄金時代であった。1962年は第30回全日本選手権を4回目の優勝。さらには第2回NHK杯(初優勝)と、当時は古河電工が単独で参加していた第17回国体で8年ぶり2回目の優勝を達成。これらのタイトルを手にした三冠であった。1963年では、全日本選手権(第31回)は3位に終わったものの、第18回国体、第3回NHK杯はともに連覇、これらに加え第9回実業団選手権を制しての三冠達成であった。

「あの日・あの時」:瀬川嘉晴(1961年度入部)
3兄弟(昭義、広海)でプレーしていました。上の二人は立教(大学)から古河に入って、私は苫小牧工業(高校)から入りました。2年間だけですが、兄弟3人でFWを組みました。NHK杯と国体、それと全日本選手権、実業団選手権を制して三冠も達成しました。優勝したことが一番の思い出ですね。

黄金時代が到来していたが、「好事魔多し」の事態がチームを襲った。不況の波を受け、会社の経営状態が緊迫し、全社的に合理化が進められたのだ。社技として扱われていたアイスホッケー部やサッカー部などの対外部活動も例外ではなかった。1964年(昭和39年)、企業経営上の処置として、1年間の休部(対外試合禁止)となったのである。当時監督であった宮崎宜広をはじめ、部を去る選手も少なくなかった。部員がいなくなることは休部が解かれチームが復活した際、チーム構成上マイナスになることは明白だった。善後策はいろいろ練られたものの、休部という出来事は、休部開けのチーム状況に多大なる影響を及ぼした。
1年後の1965年(昭和40年)、対外活動が復活され、休部は解けた。全日本選手権や実業団選手権などの大会への参加、王子製紙との定期戦も再開された。

時を同じくして、同年春にスタートして大きな反響を呼んでいた「日本サッカーリーグ」。アイスホッケー関係者は運営の仕組みの話を聞くなど「長期リーグ戦」発足への動きを見せていた。そして、1966年11月、第1回日本リーグが開幕した。もちろん休部が明けた古河電工も参戦した。ちなみに、11月15日の王子製紙対古河電工の開幕戦前に行われた開会式で選手宣誓をしたのはキャプテンの稲津秀則であった。
日本リーグに参戦した古河電工。1966年11月から1968年(昭和43年)12月まで2年間、アイスホッケー部長を務めた外山大一氏が古河電工アイスホッケー部六十年史の中で「この時期はアイスホッケー部にとって危機的時期の一つではないかと思われる。どん底時代ではなかったかと思う」振り返っている。実際、初期の日本リーグは5チーム時代。古河電工は4位か5位に終わっていた。全日本選手権でも4位止まりが続いていた。
その背景には人員減による戦力不足があったと言わざるを得ない。休部明けであったが新人採用は控えた状態が数年間続いていた。そのため、選手が足りず、関係会社からの人的応援を得て参加していた状況であった。

試合の様子
フェイスオフをセットする菱沼正幸ラインズマン 写真:山中美光
ベンチの様子
監督時代の門馬信男 写真:山中美光

「あの日・あの時」:菱沼正幸(1966年度入部)
私は古河の人間ではないのです。別会社の人間で、古河が休部になったことで選手が足りなくて助っ人で入ったのです。その後、レフェリーにならないかと言われ、古河を代表してレフェリーになったのです。34歳の時にドイツで行われたレフェリークリニックへ行って、IIHFのワッペンをもらい、レフェリーとして私は日本各地を飛んでいました。
古河を代表して、選手と言うより、レフェリーとしてのほうが多かったですね。国立代々木競技場で1万人余りが入った王子対国土戦だったかな。古河は最初に負けるから、古河からレフェリーが出なければいけないわけです。そこで大一番は私に回ってするのです。あの頃は、NHKのテレビ放映もありましたし、お客さんもすごかったけど、私も大変でした。

「あの日・あの時」:門馬信男(1966年度入部)
休部した翌々年(1966年)の時に入りました。その間、4、5年間は休部を挟んで選手の採用がなかったです。不景気ということで、社員の採用もありませんでした。そのよう中で、私たちが休部後初めて入部しました。部員も少なくて、子会社から選手を補充したりして、十数名の部員を確保した中で試合をしました。試合前の1週間から2週間の合宿を行い、日本リーグを戦う厳しい時代でした。
厳しい中で21歳と24歳の2回(1969年と1972年)、日本代表入りして世界選手権に行けたことは、自分の誇りと思っています。
その後、監督・コーチとして、初めてチェコスロバキアのアイスホッケーに取り組んだ中で、それまでチェコスロバキアのアイスホッケーのシステムを全然知りませんでした。(ボホミル・)プロシェクコーチの指導やチェコスロバキアでの研修を含めて、我々のイメージとは全く違い、理にかなったシステムでした。当時、チェコスロバキアはソ連を意識していました。ソ連に対して戦術を打ち立てて、シニアからジュニアまでの全世代がソ連に打ち勝つための練習方法をメニューに取り入れ、画期的なシステムを行っていました。国のレベルが全然違う中で、古河にしてみれば、王子や西武、国土に勝つためには、チェコスロバキアと同じで強敵にいかにくらいつくか、隙を見て得点をするかと言った戦術がマッチしていたのです。
今思えば、当時としては、一般的には何のアイスホッケーか分からなかったと思いますが、チェコスロバキアのアイスホッケーは今やっているアジアリーグのアイスホッケーと何ら変わらないのです。そういった面では良い経験をしましたし、我々がやったことは間違いではなかったと実感しています。

チェコスロバキアのアイスホッケー導入が開花し、対王子戦の連敗をストップ

強化対策としては選手補強以外はなかった。しかし、大学卒の選手採用が許される時代ではまだなかった。そこで、高校卒業の選手を技能職で採用することになった。北海道出身の選手を中心に数名ずつの採用が始まった。その後、大学卒の選手の採用も復活した。
しかし、日本リーグが6チーム時代となっても上位進出はままならなかった。他のチームでは外国人選手を補強しているが、古河は外国人ゼロということも少なからず影響していた。そこで強化策として、1976年(昭和51年)の第11回日本リーグから初の外国人選手として日系人のケン・竹内が加入した。さらに、1980年(昭和55年)の第15回日本リーグではベネット兄弟(兄カートと弟ハーベイ)がチーム入りした。
ベネット兄弟の2年目の1981年(昭和56年)、彼らがプレーしている一方で、一つのプロジェクトが動いていた。チェコスロバキア代表選手の受け入れであった。チェコスロバキア大使館をはじめとする関係機関や関係者とやり取りを進め、契約締結の運びとなった。

試合の様子
#14大橋現 写真:山中美光
試合の様子(守備)
#3ハーベイ・ベネット(右) 写真:山中美光

「あの日・あの時」:大橋現(1980年度入部)
オレの歴史の始まりはユニホームにオレだけ名前がなかったこと。日本リーグの試合の時にね(笑)。池田(正幸)さんが早稲田大の時、14番でした。当時のマネジャーが池田さんを4番で登録したのです。4番はDFの番号でしたので、空けておいて切り替えるつもりだったのだけれども、オレの成長が早かったから、池田さんが4番のままで、背番号14番で名前が入っていないユニホームに、1年後ぐらいに名前を入れてもらいました。最初に名前がないユニホームを見た時は悔しかったですね。辞めようかとも思いましたが、辞めたら悔しいしね。見返してやろうと思って、早く追い付くように努力して、毎朝、合宿所から神橋までをランニングしたり、筋トレをやったりしました。そうしたら21歳の時に日本代表に選ばれました。22歳の時にはチェコスロバキアに行きました。そして23歳の時、日本代表に再度入ってアメリカに行きました。
選手を上がって38年経ちますが、現在は県の公安委員会の委嘱で少年指導委員をやったり、保護司も25年やっているので、この中で初めて勲章をもらうことになるのかもしれません。

1982年(昭和57年)には、チェコスロバキア代表としてソ連を破り世界選手権で金メダルを獲得した実績の持ち主であるエド・ノバックとフランタ・カベルレが加入。チェコスロバキアアイスホッケーの導入のスタートとなった。彼らの加入だけではなく、チェコスロバキアへスタッフや選手を派遣しての研修も始まった。
外国人選手は1984年(昭和54年)の第19回日本リーグから出場ができなくなった。しかし、チェコスロバキアアイスホッケーを継続するため、ボホミル・プロシェクをコーチとして招聘し、さらなるレベルアップを図った。チェコスロバキアアイスホッケーの導入の結果として、実を結んだ証と言える「日本リーグにおける対王子59連敗でのストップ」もこのシーズンであった。

選手二人
チェコからの最強助っ人 #3フランタ・カベルレと#2エド・ノバック(右) 写真:JIHF所蔵
喜ぶ様子
得点を喜ぶ古河電工 #5峯伸樹(中央) 写真:山中美光
勝利を喜ぶ様子
王子に勝利し喜ぶ古河電工 写真:山中美光

「あの日・あの時」:柴田清典(1971年度入部)
現役時代、王子にはずっと勝ちたいと思っていました。王子戦では割と良いセーブをしていたかな。一番の思い出は監督になって王子に勝って連敗をストップしたことでしょう。引木(孝夫監督)さんに「ありがとうございました」と手紙を書きましたよ。それと、目標にさせてもらい、敵ではあるけど、どうやったら良いのかなどいろんなことを聞きましたね。そうしたら教えてくれましたよ。「柴田、これではダメだよ。一番の欠陥は、穏やかで闘争心が欠けている」とかね。
選手時代の得意相手は国土。力差はあったけど勝つチャンスは十分あった。なぜかと言うと、学生時代(明治大)からみんな知っている選手ばかり。法政の1年後輩や同じ明治だけど後輩の星野好男などいっぱいいた。プロ野球の野村監督ではないけど、試合前の練習の時に、「今のはダメだな」「それじゃ、入らない」とかをちょっと言いに行くわけ。試合では、フェイスオフの時に「それでは点は取れない」とか言う。学生の時から知っているから、そんなことを言っていました(笑)。一方、不得意は西武。勝てそうで勝てなかった。野武士が多かった。
外国人を初めて呼んだ時、オレはプレーイングコーチでした。あんまり負けるから、人事部長が来て「どうしたらいいんだ」と言うから、「外国人を取ってください。なんぼ頑張っても勝てません」と答えました。するとアメリカからベネット兄弟を取ったのです。でも彼らは反則が多くて大変だった。
監督になって「チェコスロバキアから外国人を呼んでください」と頼みました。フランタ・カベルレ、エド・ノバックは歳を取っていたけど超一流。この時は楽しかったね。ソ連に勝てるのはチェコスロバキアしかいなかった。何かあるなと思いました。押しても引いてもダメなら出直して……を繰り返す美しいアイスホッケーでした。
チェコスロバキアからいろんなことを学び勉強になりました。チェコスロバキアにも行って、日本にはない本がいっぱいありました。監督とはどうあるべきかから始まっていろいろ勉強になりました。人生の勉強で、アイスホッケーだけではなく、仕事でも同じことが言えました。

「あの日・あの時」:後藤日出男(1977年度入部)
一番の思い出は連敗ストップの王子戦ですね。59連敗でしたから。60連敗にならなくて良かったというのが正直な気持ちです。
あの試合は、何でウチが入るのだろうという感じで、6点も取りましからね。入れられたのが3点かな。シュート数は90本対30本ですから。止めたのか、外れたのか分からないけど(笑)。「勝ちに不思議な勝ちあり」と(プロ野球の)野村さんが言ったことがありますが、やっぱり不思議な勝ちかもしれないですね。ポジションが良かったからなのか、相手がミスったのかは分からないけど、シュートが外れてくれる。勝つ時は不思議な力があるのかな。
いつもと同じように攻められてはいた中で、時間だけが過ぎていった感じでしたね。終わってみたら、勝った! といった感じ。それが一番かもしれませんね。

試合の様子
#55柴田清典 写真:山中美光
試合の様子(守備)
#35後藤日出男 写真:山中美光

1分29敗の最悪シーズンから翌シーズンは4位と大躍進

外国人不在となった日本リーグでも、思ったように白星を積み上げることはできず、5位または6位が定位置の状態が続いた。全日本選手権でも準決勝敗退の4位が最高成績であった。
1998年(平成10年)の長野オリンピック開催に向け、日本代表の強化の一環として、日系人選手が1994年(平成6年)に解禁。各チームに日系人選手が加入する中、古河電工は日系人の加入を見送った。日本人のみのチーム編成で迎えた第29回日本リーグ。他の5チームとの戦力差は如何ともし難く、古河電工は開幕から29連敗。最終戦(対雪印)で引き分けるのがやっとであった。

「あの日・あの時」:池田鉄也(1983年度入部)
ウチらの年代が一番、紆余曲折あったのかな。変革の時期でしたからね。低迷期から入って、1分29敗でも(部は)なくならず……。翌年、外国人や(伊勢)征広たちが入って4位と躍進できました。でも日系人がいるといないとの差は大きかった。2つ目までは何とか勝負できても3つ目では勝負できるわけがなかった。
試合結果とは別に、あの時に移籍の道などがあったら、アイスホッケー界はもっと変わっていたと思います。古河も社員選手からプロ契約選手導入へ、流れが変わっていきました。
当時、他のチームで日本人のプロアイスホッケー選手がいたのか分からないけど、かなり早いタイミングでプロ契約をしていました。今はみんなプロでやっているけど、そのはしりでした。バブル期だったから、選手を引退して地元(帯広)に戻っても仕事はあると思ったので、プロ契約することにしたわけです。プロですから移籍の自由はあっても、「生涯古河だよね」というのはありました。
実際、古河には愛着はありますからね。最後のシーズンまでスタッフをやれたので、それに越したことはなかったですよ。またオレはエリートではないし雑草ですからね。古河やアイスホッケー界にも恩返ししてきましたし、今後もしていきます。古河というバックボーンがあってこれまでできました。ここは自分の歴史の中での大事な場所ですね。

試合の様子
#77池田鉄也 写真:山中美光
試合中の様子
#69ラデック・ガルドン 写真:山中美光
試合の様子
#7マイケル・マードル 写真:山中美光

1995年には外国人選手が解禁。各チーム2人までの外国人選手がOKとなった。古河電工はマイケル・マードルとラデック・ガルドンをチェコから招聘した。さらに外久保栄次、伊勢征広の移籍組の加入などの新戦力によりチーム力がアップした。その結果、第30回日本リーグは前後期制で行われたが、前期は7勝1分12敗の4位、後期も7勝13敗の4位となり、最終順位も4位と古河電工史上、最上位となった。この時の4位はその後も抜かれることはなく最高順位であった。

「あの日・あの時」:池田正幸(1979年度入部)
FW出身の監督として、「攻撃は最大の防御なり」を実践できるチーム作りを目指しました。しかし、監督1年目は残念ながら29連敗でした。2年目にチェコからFWのガルドンとDFのマードルが加入したことが刺激になり、チームが活性化しました。それに伊勢征広、村上裕幸が加わり、ここでようやく攻めができる体制が整い、攻めのガルドン、守りのマードルを柱にチームができました。前年の屈辱から、試合を行うたびに、結果が出ることにより不安から自信が生まれ、そして確信へと変化していきました。長年にわたって、チェコから来てくれたコーチたちや選手たちには感謝しかありません。その特効薬として効き始めた年でした。
これで、闘える集団として楽しく魅力ある試合展開ができると確信しました。誰もが(また負ける? と)不安の中で試合をしているのではなくて、一生懸命やれば勝てるという自信みたいなものに加え、成果がありました。これは成功体験でしたね。

「あの日・あの時」:加藤茂(1983年度入部)
1分29敗は辛かったですよ。試合をやっていて、勝てる気がしません。2ピリが終わった時点で3点差ぐらいついていたら、今日もダメだ状態。接戦になっていても、最後は負けるだろうなという気持ちでやっていました。常に負けるかもしれないという思いでやっていたのが1分29敗のシーズンでした。
翌年、ガルドンとマードルが入ってきて、勝てるかもしれないから勝てるに変わりました。さらに村上がいる、外久保がいる、伊勢征がいる。随分タレントがそろってきて、一番楽しかったですね。どん底と楽しい時期。2年間でこんなに変わるものかと思うぐらいでした。
ボク自身のプレーは来たシュートを止めるだけですから、そんなに変わらないと思います。ただ、そのシュートの止める難易度が格段に変わりましたよね。相手がフリーで打つようなシュートを、体を張って守ってくれました。相手が苦し紛れに打つシュートとは、シュートの質が違うから、楽といえば楽でしたね。あのシーズン、シャットアウトもやっています。そのくらい難易度の低いシュートが多かったと思います。

ベンチの様子
#4池田正幸 写真:山中美光
ベンチの様子
#77加藤茂 写真:山中美光

73年の活動に幕。発展途中での廃部

1995年の第30回日本リーグでの4位が日本リーグにおける最高順位。その後、日本リーグ順位では第31回が6位、第32回が5位、第33回が6位と順位を見ると以前の低迷期状況に戻った感がある。しかし、数値や試合内容から比較すると、第30回日本リーグを境に、それ以前とその後では全く異なる。各リーグで試合数が異なるため、勝点ではなく勝率に目を向けると、第30回は3割5分9厘、第31回は2割8分6厘、第32回は4割1分、第33回は1割6分2厘なっている。第30回以前の最高勝率は第3、4、6回の2割5分であった。また試合内容でも結果として負けたとしても、力差がなくなり、対等の戦いができつつあった。
1995年以降は低迷期を脱し、発展途中であったと言えた。

試合の様子
#91伊勢征広 写真:山中美光
試合中の様子
#61春名真仁 写真:山中美光

「あの日・あの時」:伊勢征広(1995年度入部)
雪印に所属して時代、古河は絶対に負けられない、勝たなければならない相手でした。
古河に来て、勝率の良いチームではなかったので、とにかく勝たせたかったですね。そのために私の力を使ってもらえるならと思っていました。
最下位の時期が長かったので、4位になったでしょ。4位になった時は少しだけ仕事をしたかなといった感じです。最下位を脱出したのでね。
長野オリンピックへ向かって日本のレベルを上げなければという時期だったので、私が行ってどうなるというものではないけど、勝率に大きな差がつくのはリーグとして良くないという思いはありました。それを少しでも改善したいと思っていました。

「あの日・あの時」:春名真仁(1996年度入部)
古河に入って3シーズンで廃部になって、その後はアイスバックスと王子でプレーしました。
古河に入社の際、東京から日光への行き方が分からなくて、浅草から日光へ各駅停車で来ました。河津(知典)さんがボクを(東武日光駅に)迎えに来ると言われていて。4時間ぐらいかかって、めちゃめちゃ遠いところに来た。日光は遠いなと思いましたね。
アイスホッケー選手として、(加藤)茂さんの影響をすごく受けましたね。当時、チームにはGKが茂さん、八巻(嘉彦)さん、(尾形)拓志、ボクの4人いたのですが、ボクが一番新しく入りました。茂さんがトップにいて、コーチではないのですがGKの夏場のトレーニングメニューなど、すべて組んでいました。自分たちでやるのだというのもありましたし、そのメニューがしっかり練られていました。
1年目から運よく試合に出られましたが、ボクは電工リンクであんまりやっていなくて、霧降がメインでしたが、観客の盛り上がりも全然違いました。なかなか勝てなかったですけど、日光で試合をやれることが幸せだと感じていました。
1年目で体力もなかったし、シュートもすごく打たれるチームだったので(笑)、試合が終わるとへとへとでした。力が抜けて、試合後シャワーを浴びて戻ってくると、防具がきれいにパッキングされて、運び出されたりするのです。それをやってくれていたのが、茂さんや八巻さんらベテランのGKの方が防具を片付けてくれていたのです。こんなことまでしてくれるのだ。すごい人たちだなと感じましたね。体育会系のノリだと絶対ないですよね。1年目のボクが試合に出て、防具の片付けまでしてくれる人たちがいるのだということに、チームスポーツとして、ベテランになった時に見習っていかないといけないと感じましたね。当時は、そんな雰囲気なチームはなかなかなかっと思いますね。
ボクは社員で入りました。日光に来て「メタ研」と言われた研究所にいました。でもフルタイムで仕事をしているわけではないので、大事な研究とかはしていません。一応、メタル研究所の技術者で、仕事もしていましたが、ペーペーなので、お手伝いというか、実験の手伝いをする感じでした。アルバイト的な仕事をしながらですね(笑)。そんな感じでしたから、会社行き、仕事をするのも新鮮でした。本当にメタ研のみんなに良くしてもらいました。

発展途中であった1999年1月12日、「古河電工廃部」のニュースが駆け巡った。この日は第66回全日本選手権の初日であった。この日から古河電工の試合には多くのマスコミが駆け付け、選手の一挙手一投足を追った。全日本選手権では準決勝で西武鉄道に敗れ、最後に優勝した第30回大会以来の2位以上になることはできなかったが、3位決定戦で王子製紙を破り第31回大会以来の3位となった。
そして、全日本選手権後再開した日本リーグでは、2月21日には地元・日光での最終戦。3月7日は「古河電工73年の歴史」にピリオドを打つラストゲームが行われ幕が下りた。

観客の様子
地元日光での最終戦の観客席 写真:山中美光
試合後の様子
超満員の観客が詰めかけた地元ラストゲーム 写真:山中美光

「あの日・あの時」:村上裕幸(1994年度入部)
僕は海外でのプレーを含め、4ヵ国5つのリーグ、そして6チームでいろいろな経験してきました。そういった意味で、古河電工アイスホッケー部に所属した単体としての記憶は色濃く残っていないのが正直なところです。ただ、古河には熱狂的なファンがいて、その声援を受け、電工リンクや霧降アリーナという、思いっきり暴れることができる場所があったのは大切な「想い出」と言えるでしょう。
僕にとっての古河電工アイスホッケー部は、小学校の卒業文集に記した「古河電工アイスホッケー部の選手になる」という夢を叶えた場所です。故に、廃部となったことは誰よりもショックでしたよ。もしかしたら、その時の辛さや悲しさが、古河電工アイスホッケー部での記憶を一部消し去っているのかもしれません。でも、古河の選手になることを選択し、在籍したことは誇りです。そうですね、それは選手時代の大切な1ページです。
僕は、試合中のどの瞬間、もベストを尽くしてきました。「ピンチに頼られ、チャンスに応える」がモットーでした。それは熱狂的なファンのためです。応援してくれる方がいての選手ですし、ファンの皆さんは僕に本当に大きな力を与えてくれましたからね。一言でいえば、常にベストを尽くしたということでしょう。面白いもので、話を進めると走馬灯のように記憶が蘇ってきます。今回の100周年記念式典のおかげですね。関係者やファンの皆さんに「ありがとう」をお伝えしたい。その気持ちは今も変わりません。

「あの日・あの時」:藤沢悌史(1998年度入部)
西武から移籍してきて、1シーズン戦っての廃部でした。西武の一員とし古河と戦い、古河の一員として西武とも戦いました。
アイスホッケーのスタイルが全然違って、古河はチェコ式。西武はカナダ式。西武時代では結構、古河にプレッシャーをかけると自分たちのプレーができるイメージがありました。古河はきれいなアイスホッケーをやりたいといった感じで、逆にフィジカルにどんどん行くと自分たちにチャンスがありましたね。
環境が全く違いました。西武はリンク(東伏見)の隣が寮でした。施設などの環境がすごく整っていました。古河は電工リンクでしたが、同じように寮で食事も出ます。でも練習の仕方なども違がいました。西武の時はウエートトレが多いイメージです。古河に来て走ることが多かったです。坂の上り下りや、心肺機能のトレーニングが多かったので、ボクとしては結構きつかったです(笑)。陸トレの時から違っていました。氷上練習の内容はボクが来た時は、フランタ・カベルレがコーチだったので、西武のウイリー・デジャーデンコーチとは真逆のアイスホッケーをやるので、戸惑いはありましたが面白いと思いました。
違うアイスホッケーに触れて、実際にプレーできたことは、監督としての基礎になっていると思います。どっちが良いとは言えませんが、どちらのアイスホッケーも経験したことによって、アイディアなども違いますし、コーチングの幅は広がり、今にも生きています。

試合の様子
#10村上裕幸 写真:山中美光
試合中の様子
#74藤澤悌史 写真:山中美光

古河電工から日光アイスバックスへ

1999年の古河電工の廃部を受けて、チームを引き継ぐ形で誕生した日光アイスバックス。OB懇親会の翌日、2025年9月15日、日光東照宮客殿でHC栃木日光アイスバックスの主催で「100周年記念式典・パーティー」が開催された。
御祈祷で幕を開けた式典・パーティー。代表のセルジオ越後の主催者挨拶、福田富一栃木県知事の来賓挨拶、100周年記念功労者表彰、瀬高哲雄日光市長(栃木県アイスホッケー連盟会長)の乾杯と続き、アイスホッケー談義に花が咲く中、アジアリーグチェアマンのアレックス・ラミレスの挨拶や藤沢悌史監督と土田英二チームディレクターによる謝辞、さらには、古河電工からアイスバックスまでの100年歩みの歴史映像なども流された。そして、最後は参加者が一堂に会しての集合写真を撮影して、試合終了(タイムアップ)となった。

集合写真
古河電工アイスホッケー部・H.C.栃木日光アイスバックス「100周年記念式典・パーティー」 写真:株式会社栃木日光アイスバックス

古河電工アイスホッケー部の幕は降りた。トップリーグ(当時は日本リーグ、現在はアジアリーグ)のチームとして日光をホームタウンに、古河電工の後を継いだアイスバックス。
古河電工が73年、アイスバックが27年の歴史を刻み、2025年に創部100周年の時を迎えた。ネクスト100年、どのような歴史を刻むのかは1年1年の積み重ねででき上がるため、現在では未来の姿を見ることはできない。だが、アイスバックスが日光に本拠地を置くトップリーグのチームとしてネクスト100年の中心となって活動し、歴史の1ページを作っていくことになることは間違いないであろう。

【古河電工の成績】
全日本選手権:優勝4回、準優勝8回、3位5回

日本リーグ:最高順位4位(5チーム時代・第4、5、6回/6チーム時代・第30回)
通算成績117勝45分594敗

【古河電工の日本代表選手(オリンピック・世界選手権出場メンバー)】
保本 隆章(GK):1957世界選手権
川西  尹(DF):1957世界選手権
宮崎 宜広(DF):1957世界選手権、1960オリンピック
江守 敏彦(FW):1957世界選手権
瀬川 昭義(FW):1957世界選手権、1960オリンピック
門司  堯(FW):1957世界選手権
山田 敏彦(FW):1957世界選手権、1960オリンピック
渡辺 和男(FW):1957世界選手権
本間 敏栄(GK):1960オリンピック、1964オリンピック
赤沢  親(DF):1960オリンピック
島田  繁(DF):1960オリンピック、1964オリンピック
入江 淳夫(FW):1960オリンピック、1964オリンピック
岩岡 譲二(FW):1960オリンピック
村野 正夫(FW):1960オリンピック
稲津 秀則(FW):1964オリンピック
門馬 信男(FW):1969世界選手権、1972世界選手権
池田 正幸(FW):1983世界選手権
春名 真仁(GK):1997世界選手権
村上 裕幸(FW):1999世界選手権

2025年9月14日、古河電工日光事業所校内食堂で行われたOB懇親会でリンクアナウンスを再現して参加者を紹介した菱沼弘子さんが、OB懇親会の翌日に入院し、11月1日、お亡くなりになりました。菱沼弘子さんのご冥福をお祈りいたします。

<主な参考文献>
古河電工アイスホッケー部六十年史(発行:古河電工アイスホッケー部、古河電工アイスホッケー部OB会)
スポーツ・マガジン12「アイスホッケー」(発行:ベースボール・マガジン社)
アイスホッケー・マガジン1996年1月号、1999年3月号、5月号(発行:ベースボール・マガジン社)

<写真>
山中美光(フォトスタジオ和楽)、株式会社栃木日光アイスバックス、古河電工アイスホッケー部60年誌など

第1版:2025年12月10日・記

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