オリンピックへの道_男子編

更新日
  • Xでポスト
  • Facebookでシェア

オリンピックへの道_男子編

開催国出場、繰り上げ出場でもない完全なる「自力出場」は 半世紀以上前の1968年のグルノーブル大会が最後

1936年、ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開催された第4回冬季オリンピックに初参加した日本。
戦後は1960年のスコーバレーオリンピック(アメリカ)から復活出場しました。
以後、1964年のインスブルックオリンピック(オーストリア)、1968年のグルノーブルオリンピック(フランス)、1972年の札幌オリンピック、1976年のインスブルックオリンピック(オーストリア)、1980年のレークプラシッドオリンピック(アメリカ)まで6大会連続出場を果たしました。
しかし、1984年のサラエボオリンピック(ユーゴスラビア・当時)の出場権を逃すと、開催国として出場した1998年の長野オリンピック以外、2022年の北京オリンピック(中国)まで全ての大会で、出場権を獲得することはできませんでした。
2024年8月には2026年に開催されるミラノ・コルティナダンペッツォオリンピック(イタリア)の出場権をかけた最終予選会が行われます。
「オリンピックの道_男子編」と題しまして、これまでの日本代表のオリンピック出場権を賭けた戦いを振り返ります。   <敬称略>

第1版:2024年8月23日・記

世界選手権Cプールで優勝し自力で出場権を獲得したグルノーブルオリンピック
【1936年ガルミッシュ・パルテンキルヘン/オリンピック出場】
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックの試合結果や日本代表選手などは、以下リンク「1936ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック」よりご確認いただけます。
【1960年スコーバレー/オリンピック出場】
スコーバレーオリンピックの試合結果や日本代表選手などは、以下リンク「1960スコーバレーオリンピック」よりご確認いただけます。
【1964年インスブルック/アジア・オセアニア予選突破:オリンピック出場】
インスブルックオリンピックではアジア・オセアニア枠が設けられ、1963年11月23、26日に日本とオーストラリアの間で出場権をかけて戦いました。
日本17ー1オーストラリア
日本17-6オーストラリア
結果は日本の2勝で、インスブルックオリンピックの出場権を獲得しました。

インスブルックオリンピックの試合結果や日本代表選手などは、以下リンク「1964インスブルックオリンピック」よりご確認いただけます。
【1968年グルノーブル/1967世界選手権Cプール優勝:オリンピック出場】
グルノーブルオリンピックの出場枠は16カ国(当初)あり、出場資格は
①開催国:フランス(1967世界選手権Cプール)
②1967世界選手権Aプールの8カ国
③1967世界選手権Bプールの8カ国中上位6カ国または7カ国
④1967世界選手権Cプールの1位
でした。
開催国のフランスはCプールに位置し、フランスの順位によってBプールから出られる国の数が変わりました。フランスはCプールで4位に終わり、Bプールの下位2カ国(スイスとハンガリー)が出場できませんでした。さらに出場権のあったBプールのポーランド(B1位)とイタリア(B5位)が辞退。そのため、グルノーブルオリンピックは16カ国で開催予定でしたが14カ国で行われました。

日本は1966年の世界選手権に出場していないため、1967年の世界選手権はCプールからの仕切り直しの参加となりました。オリンピック出場権をかけた1967世界選手権Cプールは1967年3月19日から28日までオーストリア・ウィーンで行われました。
日本の試合結果は次の通りです。
日本11-2デンマーク<1P(3-0)、2P(3-1)、3P(5-1)>
日本8-2ブルガリア<1P(2-0)、2P(3-1)、3P(3-1)>
日本7-2フランス<1P(1-0)、2P(4-2)、3P(2-0)>
日本20-2オランダ<1P(4-1)、2P(7-1)、3P(9-0)>
日本は初戦のデンマーク戦の第2ピリオドに荒城信弘(王子製紙)が負傷退場したものの白星発進。その後も白星を重ね、最終戦(オランダ戦)を前にCプール優勝を決めました。最終戦も圧勝し全勝優勝を飾るとともに、グルノーブルオリンピックの出場権を獲得しました。なお、黒川秀明(王子製紙)が13ゴールを挙げ、Cプールの得点王に輝きました。
藤原勝平コーチの談話(読売新聞1967年3月29日付より)
「全勝優勝でオリンピック出場権を獲得できて本当にうれしい。ソ連のパスワークとカナダのチェックプレーをミックスした日本独特のアイスホッケーをつくり出していきたい。オリンピックにはさらに強力なチームを送るように努力したい」。

1967世界選手権Cプールと1968グルノーブルオリンピックの試合結果や日本代表選手などは、以下リンク「1967世界選手権_Cプール」「1968グルノーブルオリンピック」よりご確認いただけます。
【1972年札幌/開催国出場】
札幌オリンピックの出場枠は12カ国あり、出場資格は
①開催国:日本(1971世界選手権Bプール)
②1971世界選手権Aプールの6カ国
③1971世界選手権Bプールの上位6カ国(日本とオリンピック棄権の東ドイツを含む)
でした。
東ドイツは札幌オリンピックから1988年のカルガリーオリンピックまでアイスホッケーの出場を棄権しました。そのため、札幌オリンピックは11カ国で行われました。
日本は開催国として出場しました。

札幌オリンピックの試合結果や日本代表選手などは、以下リンク「1972札幌オリンピック」よりご確認いただけます。
【1976年インスブルック/1975世界選手権Bプール6位:出場権逃す→繰り上げ出場】
インスブルックオリンピックの出場枠は12カ国あり、出場資格は
①開催国:オーストリア(1975世界選手権Cプール)
②1975世界選手権Aプールの6カ国
③1975世界選手権Bプールの8カ国中上位5カ国
でした。
オリンピックの出場権をかけた1975世界選手権Bプールは1975年3月14日から23日まで札幌で開催され、1972年の札幌オリンピックの会場となった真駒内屋内競技場で熱戦が繰り広がられました。
日本の試合結果は次の通りです。
日本7-1イタリア<1P(1-0)、2P(5-1)、3P(1-0)>
日本3-6西ドイツ<1P(0-2)、2P(2-1)、3P(1-3)>
日本3-2スイス<1P(0-0)、2P(2-0)、3P(1-2)>
日本2-2ルーマニア<1P(0-1)、2P(2-1)、3P(0-0)>
日本1-3東ドイツ<1P(0-1)、2P(1-2)、3P(0-0)>
日本4-8ユーゴスラビア<!P(0-3)、2P(3-3)、3P(1-2)>
日本1-1オランダ<1P(0-0)、2P(1-1)、3P(0-0)>
日本は地元の利を生かし、「3位。最悪でも5位以内」を目標に掲げて大会に臨みました。西ドイツには敗れたもの、イタリア、スイスに勝ち、2勝1敗で迎えたルーマニア戦。「この引き分けは痛い」と田名部匡省監督が試合後に話したように、勝ち星を計算していましたが、無念の引き分け。続く東ドイツ、ユーゴスラビアに敗れ2勝1分3敗で迎えた最終オランダ戦。日本がインスブルックオリンピックの出場権を手にするには勝利が絶対条件でした。しかし、結果は1-1の引き分け。日本は6位に終わり、インスブルック出場権を獲得することはできませんでした。
オランダ戦後、田名部監督とともに記者会見した堤義明日本アイスホッケー連盟(以下、日ア連)会長(当時)は、
「スタミナなど技術面以外にもクリアしなければならない問題があります。全部が悪かった。根本的に強化方針を練り直さなければダメです。5年計画で強化して次のオリンピック(レークプラシッド)を目指します」と長期構想を打ち出しました。
その後、Bプール1位の東ドイツと1975世界選手権Aプールで3位のスウェーデンがインスブルックオリンピックへの参加を辞退。日本は繰り上げ出場を果たしました。

1975世界選手権Bプールと1976インスブルックオリンピックの試合結果や日本代表選手などは、以下リンク「1975世界選手権_Bプール」「1976インスブルックオリンピック」よりご確認いただけます。
試合会場から退場する人々
真駒内屋内競技場に連日多くの観客が来場した
超満員の試合会場
連日超満員の試合会場
【1980年レークプラシッド/1979世界選手権Bプール6位:出場権逃す→繰り上げ出場】
レークプラシッドオリンピックの出場枠は12カ国あり、出場資格は
①1979世界選手権Aプールの8カ国(開催国:アメリカを含む)
②1979世界選手権Bプールの10カ国中上位4カ国
でした。
オリンピックの出場権をかけた1979世界選手権Bプールは1979年3月16日から24日までルーマニア・ガラチで開催されました。国際的な政治問題など諸事情も絡み参加国が8カ国から10カ国になりました。8カ国の場合、通常、1回戦総当たりリーグ戦で順位を決めますが、今大会は10カ国を5カ国ずつの2組に分け1次リーグを戦い、各組上位2カ国が上位リーグへ進み1位から4位を争うとともに、レークプラシッドオリンピックの出場切符を手にすることになりました。
各組3、4位の4カ国で下位リーグで5位から8位を決めました。各組の最下位の2カ国はCプール降格なりました。
オリンピック行きの切符がかかった日本の1次リーグの試合結果は次の通りです。
日本5-6オランダ<1P(2-2)、2P(2-2)、3P(1-2)>
日本9-3中国<1P(3-1)、2P(4-1)、3P(2-1)>
日本3-4ノルウェー<1P(1-1)<2P(2-2)、3P(0-1)>
日本3-4スイス<1P(1-0)、2P(1-4)、3P(1-0)>
第2戦の中国には勝利したももの、残る3試合はいずれも1点差の惜敗。1勝3敗の4位となり、この時点でオリンピック出場権は失いました。日本にとって不運だったのは、緒戦のオランダ戦で星野好男(国土計画)が負傷退場。また桜井照男(西武鉄道)も負傷するなど、負傷者が複数出たことでセットのバランスが崩れてしまいました。続く中国戦も勝利はしましたが、堀寛(西武鉄道)と星野の2人が負傷退場する状況になりました。ノルウェー戦、スイス戦でも堀、星野の状態は今ひとつ。さらに藤井忠光(国土計画)もノルウェー戦で途中退場。大会を通して、負傷退場者が相次ぎ、セットが崩れ、描いていた戦いができなかったことが悔やまれました。
下位リーグではオーストリアに3-2、デンマークに11-4と勝利。通算6位で大会を終えました。
その後、Bプール2位の東ドイツと同5位のスイスがオリンピックの出場を辞退したため、日本は繰り上げでレークプラシッドオリンピックの出場権を獲得。1960年のスコーバレー大会から6大会連続出場となりました。

1979世界選手権Bプールと1980レークプラシッドオリンピックの試合結果や日本代表選手などは、以下リンク「1979世界選手権_Bプール」「1980レークプラシッドオリンピック」よりご確認いただけます。
サラエボオリンピック出場が消え、オリンピック連続出場は6でストップ
【1984年サラエボ/1983世界選手権Bプール5位:出場権逃す】
サラエボオリンピックの出場枠は12カ国あり、出場資格は
①開催国:ユーゴスラビア(1983世界選手権Bプール)
②前回(レークプラシッドオリンピック)優勝国:アメリカ(1983世界選手権Bプール)
③1983世界選手権Aプールの7カ国(オリンピック棄権の東ドイツを除く)
④1983世界選手権Bプールの上位2カ国(ユーゴスラビアとアメリカを除く)
⑤1983世界選手権Bプールの上位3番目(ユーゴスラビアとアメリカを除く)と
 1983世界選手権C プール優勝国とのプレーオフの勝者
でした。
1977年以来の日本開催となった1983世界選手権Bプールは1983年3月21日から31日まで東京・国立代々木競技場をメイン会場として開催されました。
日本の試合結果は次の通りです。
日本3-2ユーゴスラビア<1P(0-0)、2P(2-1)、3P(1-1)>
日本3-3スイス<1P(1-1)、2P(2-1)、3P(0-1)>
日本6-2ルーマニア<1P(2-1)、2P(1-0)、3P(3-1)>
日本4-5ノルウェー<1P(1-3)、2P(2-1)、3P(1-1)>
日本5-5オーストリア<1P(1-1)、2P(2-0)、3P(2-4)>
日本1-2ポーランド<1P(0-1)、2P(1-0)、3P(0-1)>
日本1-12アメリカ<1P(0-4)、2P(0-2)、3P(1-6)>
緒戦のユーゴスラビアに苦戦したものの白星スタートの日本。スイスに引き分けましたが、ルーマニアに快勝し、2勝1分と序盤を負けなしで乗り切りました。ところが、中盤のノルウェーに惜敗し、さらにオーストリアに引き分けたことで、残り試合の対戦相手(ポーランド、アメリカ)を考えると、オリンピック出場権獲得は追い込まれた状況となりました。
勝つしかないポーランド戦。GK三沢実(西武鉄道)を中心にポーランドの猛攻に耐え、場内は「ニッポン」コールや「ミサワ」コールが響き渡りました。しかし、試合終了52秒前に決勝ゴールを奪われ、オリンピック出場はほぼ絶望となりました。結果としてはポーランドに1-2と敗れはしましたが、日本のアイスホッケーにおける名勝負の一つと数えられる戦いぶりでした。日本は最終戦にも敗れ、2勝2分3敗の5位に終わり、サラエボオリンピック出場は夢と消えました。同時にオリンピックの連続出場は6でストップになりました。
鬼鞍弘起日ア連専務理事は次のように振り返っています(日本アイスホッケー年鑑 昭和57-58年 第2号より・要約)。
「レークプラシッドオリンピック以来、攻撃型のアイスホッケーに対するディフェンスシフトが変化しています。この変化・進歩に対応できず守りが甘かったことが大きな敗因だったと思います。パワーも必要ですがそれ以前の問題として、上位国に対してスケーティングやハンドリングなど基本技術に問題があったと思います。パワーやスタミナで日本は劣勢でした。しかし、技術が優れていれば、重量感もあり、パワーに打ち勝つことも可能と考えます。今回の日本代表は平均年齢が高いチームでしたが、よく戦い、善戦健闘だっと思います」。

1983世界選手権Bプールの試合結果や日本代表選手などは、以下リンク「1983世界選手権_Bプール」よりご確認いただけます。
【1988年カルガリー/1987世界選手権Cプール優勝→プレーオフ敗戦:出場権逃す】
カルガリーオリンピックの出場枠は12カ国あり、出場資格は
①1987世界選手権Aプールの8カ国(開催国:カナダを含む)
②1987世界選手権Bプールの上位3カ国
③1987世界選手権Bプールの上位4番目と1987世界選手権Cプール優勝国とのプレーオフ勝者
でした。
1986世界選手権Bプールで最下位となり、Cプールへ降格した日本。カルガリーオリンピック出場権は、1987世界選手権Cプールで優勝し、さらにBプール4位の国とのプレーオフに勝たなければ、得ることはできませんでした。
1987世界選手権Cプールは1987年3月20日から29日まで、デンマーク・コペンハーゲンで開催されました。日本の試合結果は次の通りです。
日本24-0ベルギー<1P(9-0)、2P(6-0)、3P(9-0)>
日本11-2ブルガリア<1P(2-0)、2P(4-1)、3P(5-1)>
日本3-5ルーマニア<1P(0-0)、2P(1-3)、3P(2-2)>
日本3-1ハンガリー<1P(3-0)、2P(0-1)、3P(0-0)>
日本5-5ユーゴスラビア<1P(2-1)、2P(2-2)、3P(1-2)>
日本9-0北朝鮮<1P(1-0)、2P(6-0)、3P(2-0)>
日本6-0デンマーク<1P(2-0)、2P(1-0)、3P(3-0)>
開幕2連勝と好スタートを切ったかと思われた日本でしたが、3戦目のルーマニア戦の敗戦と5試合目のユーゴスラビアとの引き分けが響き、優勝に黄色ランプが灯ってしまいました。それでも北朝鮮に圧勝し、最終戦に望みをつなげました。デンマーク戦を前に、日本とともに優勝争いを演じていたユーゴスラビアとデンマークが4-4で引き分けたため、日本が優勝するにはデンマークに4点差以上で勝つことが絶対条件となりました。日本は全員が死力を尽くし戦い6-0デンマークにシャットアウト勝ちし、奇跡の逆転優勝を飾るとともに、Bプール4位とのプレーオフ進出を果たしました。

Bプールで4勝1分2敗で4位となったフランスとのプレーオフは西ドイツ(当時)・ラティンゲンで4月9、10日に行われました。日本は1勝1敗と星を分けましたが、2試合合計の得失点差で2点及ばず、サラエボオリンピックに続き、カルガリーオリンピックに出場することはできませんでした。
フランスとのプレーオフの試合結果は次の通りです。
日本4-7フランス<1P(1-1)、2P(2-4)、3P(1-2)>
日本3-2フランス<1P(2-1)、2P(1-1)、3P(0-0)>
河渕務団長と桝川順司監督はプレーオフ総括を次のように報告しています(日本アイスホッケー年鑑 昭和61年-62年 第6号・要約)。
「フランスはカナディアンを中心に攻守にバランスが取れていました。しかし、日本も気力では一歩もひけをとらず互角に戦いました。ベテランは自分の体力以上のプレーを、若手はフランスの強力なチェックにも臆することなく戦いました。オリンピック出場権を取ることができませんでしたが、若手・ジュニア選手の成長など、今後への明るい材料は多くあると思います」。

1987世界選手権Cプールの試合結果や日本代表選手などは、以下リンク「1987世界選手権_Cプール」よりご確認いただけます。
【1992年アルベールビル/1991世界選手権Bプール8位:出場権逃す】
アルベールビルオリンピックの出場枠は12カ国あり、出場資格は
①開催国:フランス(1991世界選手権Bプール)
②1991世界選手権Aプールの8カ国
③1991世界選手権Bプールの上位2カ国(フランスを除く)
④1991世界選手権Bプールの上位3番目(フランスを除く)と1991世界選手権Cプール優勝国とのプレーオフの勝者
でした。
1991世界選手権Bプールは1991年3月28日から4月7日まで、ユーゴスラビア(当時)・リュブリャナとイェセニツェで行われました。
日本の試合結果は次の通りです。
日本2-2オーストリア<1P(0-1)、2P(2-1)、3P(0-0)>
日本1-7イタリア<1P(0-3)、2P(0-1)、3P(1-3)>
日本1-6ノルウェー<1P(1-3)、2P(0-2)、3P(0-1)>
日本3-5フランス<1P(1-3)、2P(1-1)、3P(1-1)>
日本1-2オランダ<1P(0-1)、2P(1-1)、3P(0-0)>
日本1-5ユーゴスラビア<1P(0-2)、2P(1-1)、3P(0-2)>
日本0-7ポーランド<1P(0-2)、2P(0-2)、3P(0-3)>
オリンピック出場権を得るために4位以内を目指した日本。4位にになるために最低4勝をノルマとして、勝てると思われる相手には必ず勝つことを想定して臨みました。緒戦のオーストリアに大沢広利(王子製紙)の同点弾で2-2と引き分けた日本。その後はフランスやオランダに善戦したものの惜敗。結局、1分6敗で最下位に終わり、アルベールビルオリンピック行きの切符を手にすることはできませんでした。
星野好男監督は大会を振り返り次のように報告しています(日本アイスホッケー年鑑 平成2年-3年 第10号より・要約」。
「第1戦のオーストリア、第4戦のフランス、第5戦のオランダ、第6戦のユーゴスラビアは勝たなければいけない相手でした。日本の技術は向上していましたが、勝つための得点力が足りないこと、他の国と比べて気力の差を感じました。しかし、ディフェンス面は良さは出ていました」。
なお、翌シーズンの1992世界選手権からAプールの国が8カ国から12カ国に増えるため、Bプール4位までがAプールに昇格しました。またCプールへの降格はないため、日本は1992年もBプールの世界選手権に出場することになりました。

1991世界選手権Bプールの試合結果や日本代表選手などは、以下リンク「1991世界選手権_Cプール」よりご確認いただけます。
【1994年リレハンメル/最終予選4位:出場権逃す】
リレハンメルオリンピックの出場枠は12カ国あり、出場資格は
①開催国:ノルウェー(1993世界選手権Aプール)
②1993世界選手権Aプールの上位10カ国(ノルウェーを除く)
③最終予選会の勝者
でした。
最終予選会は次の国々で争われました。
①1993世界選手権Bプールの上位2カ国:1位イギリス、2位ポーランド
②1993世界選手権Cプールの上位1カ国:1位ラトビア
③アジア枠(第2回アジアカップの勝者):1位日本
④スロバキア
オリンピックの出場国は、世界選手権の順位をベースに決め、1、2カ国の少数の残りの枠を、これまでは1960年のスコーバレーオリンピックの時の西ドイツ対東ドイツや、1964年のインスブルックオリンピックの時の日本対オーストラリア、1988年のカルガリーオリンピックの時のフランス対日本など、1対1の直接対決で雌雄を決するのが一般的でした。
しかし、リレハンメルオリンピックの最終予選はこれまでとは異なり、3カ国以上の国で最後の椅子を争うことになりました。ソ連、ユーゴスラビア、チェコスロバキアなどの分離・独立といった世界情勢の変化も影響を受けていました。

アジア枠は日本、北朝鮮、韓国、中国が参加し1993年2月25日から28日まで、札幌で開催された第2回アジアカップで争われました。
日本の試合結果と大会成績は次の通りです。
日本9-0韓国<1P(2-0)、2P(6-0)、3P(1-0)>
日本6-2北朝鮮<1P(4-1)、2P(1-1)、3P(1-0)>
日本11-1中国<1P(3-1)、2P(2-0)、3P(6-0)>
1位:日本  3勝0敗 勝点6
2位:北朝鮮 2勝1敗 勝点4
3位:韓国  1勝2敗 勝点2
4位:中国  0勝3敗 勝点0

1993年8月28日から9月4日まで、イギリス・シェフィールド行われた最終予選会。日本はこれまで日本のアイスホッケー界をけん引してきたベテラン中心といえるメンバー構成で臨みました。多くのメンバーにとってオリンピック出場のラストチャンスに賭けた戦いであったかもしれませんでした。一方、日本の対戦相手の国にとってもオリンピック出場は悲願でした。そのためチーム構成にNHLプレーヤーは不可欠で、スロバキアはスタスニー兄弟(ピーターとアントン)やピーター・ボンドラなど6人(NHL経験者を含めると7人)、ラトビアもGKアルツール・イルべを擁するなど万全の編成といえました。
日本の緒戦の相手は「NHL軍団」のスロバキア。力差は如何ともしがたく2-7で敗れました。続くイギリスに勝利し、残るポーランド、ラトビアに勝利することがオリンピック出場の最低条件となりました。しかし、世界の壁は大きく、ポーランド、ラトビアに連敗。1勝3敗の4位でリレハンメルオリンピック出場権を獲得することはできませんでした。
島田繁団長は次のように大会報告をしています(日本アイスホッケー年鑑 平成5年-6年 第13号より・要約)。
「プロ選手相手に日本がどの程度戦えるのかが焦点でもあり、点差はともかく、試合内容から今後の課題がはっきりしたことは言うまでもありません。1998年の長野オリンピックに向かって選手強化をいかにすべきか議論の集約する時期に来ています。計画的な強化は可能と思います。外国選手に対する経験をいかに豊富にするかが必要で、選手が国内向きか否かで検討しセレクションしていくべきと思います。スタッフもチームに拘らず、強化、理論、指導、情熱、しかも自由に選手にコンタクトできる可能性のある方を選ぶべきかと思います。効果を出せる結果を生むには、確かなる姿勢、一致団結がカギになると思います」。
日本の試合結果と大会成績、日本選手団は次の通りです。
日本2-7スロバキア<1P(1-3)、2P(1-2)、3P(0-2)>
日本4-2イギリス<1P(1-0)、2P(2-1)、3P(1-1)>
日本4-6ポーランド<1P(1-0)、2P(1-5)、3P(2-1)>
日本1-7ラトビア<1P(0-3)、2P(1-0)、3P(0-4)>
1位:スロバキア 3勝1分0敗 勝点7
2位:ラトビア  3勝0分1敗 勝点6
3位:ポーランド 1勝2分1敗 勝点4
4位:日本    1勝0分3敗 勝点2
5位:イギリス  0勝1分3敗 勝点1
団長:島田繁、監督:若林仁、コーチ:本間貞樹、岩本武志、マネジャー:中嶋正敬、ドクター、臼井朋明、トレーナー:高橋泰彦、宇波徹、GK:岩崎伸一、二瓶二郎(以上コクド)、大滝芳治(西武鉄道)、DF:高木英克、本間康弘(以上王子製紙)、梶川文彦、工藤篤緒、髙木邦男、中島谷友二朗(以上コクド)、青山勇人、小堀恭之(以上西武鉄道)、FW:杉沢明人、鈴木宣夫、百井修治、矢島敏幸(以上王子製紙)、伊賀裕治、石井澄、蝦名元樹、清枝公志、坂井寿如、高橋秀郷(以上コクド)、高橋拓(西武鉄道)、岩本裕司(雪印)
【1998年長野/開催国出場】
長野オリンピックの出場枠はこれまでの12カ国から14カ国に増えました。出場資格は
①開催国:日本→長野オリンピック予選ラウンドへ
②1995世界選手権Aプールの上位6カ国→8カ国で行われる長野オリンピック決勝リーグへ進出
③1995世界選手権Aプールの7、8位→長野オリンピック予選ラウンドへ
④最終予選(2グループ)の各グループ上位2カ国ずつ、計4カ国→長野オリンピック予選ラウンドへ
⑤最終予選(2グループ)の3位同士のプレーオフの勝者→オリンピック予選ラウンドへ
でした。
長野オリンピックはIIHF(国際アイスホッケー連盟)、NHL、NHLPA(選手会)の合意が得られ、代表チームに各国のNHL選手が参加しました。NHLはNHLプレーヤーが参加するため2月8日から24日までリーグを中断しました。

長野オリンピックの試合結果や日本代表選手などは、以下リンク「1998長野オリンピック」よりご確認いただけます。
長野オリンピック以降も日本の前に立ちはだかる世界の壁
【2002年ソルトレークシティー/1次予選(グループ4)2位:出場権逃す】
ソルトレークシティーオリンピックの出場枠は14カ国あり、出場資格は
①1999世界選手権Aプールの上位6カ国(開催国:アメリカを含む)→8カ国で行われるオリンピック決勝リーグへ進出
②1999世界選手権Aプールの7、8位→オリンピック予選ラウンドへ
③最終予選(2グループ)の各グループ上位3カ国ずつ、計6カ国→オリンピック予選ラウンドへ
でした。
最終予選は2グループに分かれ、各グループ4カ国で出場枠を争いました。1999世界選手権Aプールの9位から12位までの国は、自動的に最終予選へ進出。各グループの残る2枠(合計4枠)は、1次予選(4グループ)の各グループ1位の国(合計4カ国)が出場することになりました。

日本は1999年世界選手権は極東枠でAプールへ出場し16位であったため、最終予選を突破しなければオリンピック出場を果たすことはできませんでした。日本の最終予選への道のりは、まず日本、中国、韓国で争う極東予選を勝ち抜けること。次に16カ国が4グループに分かれて行われる1次予選を突破(各グループ1位)すると、最終予選へ進むことができました。
極東予選となった第2回アジアカップは1999年9月3日から5日まで青森・八戸で行われました。この大会の日本代表はこれまでとは大きく様変わりしました。28歳以下の選手でチームを編成。さらにオリンピック・世界選手権の代表経験組者は12人で、残りは初代表組が8人、冬季アジア・ポスト長野カップのみの代表経験組が3人というフレッシュな顔ぶれでした。日本は韓国に9-0、中国に5-0と2試合連続完封勝利と危なげなく極東予選を突破しました。

最終予選進出をかけた1次予選(グループ4)は2000年2月10日から13日まで、デンマーク・コペンハーゲンで行われました。
2戦2勝同士の対戦となったデンマーク戦。日本は勝てば文句なし優勝、引き分けでも得失点差でデンマークを上回る状況でした。しかし、デンマークに先手奪われる苦しい展開。山中武司(王子製紙)のゴールで3-3の同点に追い付きましたが、不可解なジャッジから勝ち越し点を奪われ、流れは一挙にデンマークへ。最終的に3-7で日本は敗れ最終予選へ駒を進めることはできませんでした。無言でドレッシングルームを片付ける選手たち。藤田キヨシ(西武鉄道)が「早く片付けて帰るよ」と一言。一刻も早くこの場から立ち去りたい心境を表していました。
清野勝団長の参加報告(日本アイスホッケー年鑑 平成11年-12年 第19号より・要約)。
「デンマークとの最終戦。日本が勝てば文句なし優勝、引き分けても得失点差で上回るため、日本有利な状況でした。しかし、入れ込みすぎたのか、立ち上がりから日本のペースで試合を進めることはできませんでした。先手を奪われ、苦しい展開。第3ピリオドに3-3の同点に追い付きましたが、おかしなジャッジから4点目を奪われてしまいました。レフェリーの不可解な判定が3、4箇所あり、試合の流れを作り出せませんでした」。
日本の試合結果と大会成績、日本選手団は次の通りです。
日本7-1ハンガリー<1P(4-0)、2P(2-1)、3P(1-0)>
日本5-3オランダ<1P(2-1)、2P(2-0)、3P(1-2)>
日本3-7デンマーク<1P(1-2)2P(1-1)3P(1-4)>
デンマーク 3勝0分0敗 勝点6
日本    2勝0分1敗 勝点4
オランダ  1勝0分2敗 勝点2
ハンガリー 0勝0分3敗 勝点0
団長:清野勝、監督:辻占スティーブンケン、GK:芋生ダスティ(西武鉄道)、春名真仁(日光アイスバックス)、橋本三千雄(雪印)、DF:磯島明人、川島誠、山中武司(以上王子製紙)、川口寛、中島谷友二朗、三浦浩幸、宮内史隆(以上コクド)、大川ダニエル(西武鉄道)、FW:岩田康範、桜井邦彦、桝川浩司(以上王子製紙)、伊賀裕治、内山朋彦、桑原ライアン春男、坂井寿如、鈴木貴人、八幡真、ユールクリス(以上コクド)、樺山義一、藤田キヨシ(以上西武鉄道)
【2006年トリノ/最終予選(グループA)4位:出場権逃す】
トリノオリンピックの出場枠は長野大会、ソルトレークシティー大会の14カ国から12カ国に変更されました。また世界選手権の順位ではなく、2003年のIIHF総会で承認された「IIHF世界ランキング」によって、決められるようになりました。出場資格は
①開催国:イタリア
②2004世界ランキングの上位8カ国
③最終予選(3グループ)の各グループ1位の3カ国
でした。
最終予選は3グループに分かれ、各グループ4カ国で1つの枠(出場権)を争いました。2004世界ランキングの9位から18位の国は最終予選に自動的に進出。各グループの残る1枠(合計3枠)は1次予選(3グループ)の各グループ1位の国(合計3カ国)が出場することになりました。

日本は2005年2月10日から13日までスイス・クローテンで開かれた最終予選のグループAで、スイス、デンマーク、そして1次予選を勝ち上がったノルウェーと戦うことになりました。参加4カ国の2004世界ランキングはスイス9位、デンマーク14位、日本15位、ノルウェー21位でした。
日本はトリノオリンピック行きの切符を手にするために大事な一戦であった緒戦のスイスに力差を見せつけられ敗れたことで、早くもオリンピック出場権の自力獲得がなくなりました。続くデンマークにも敗れ、最終戦を待たずにオリンピック出場は夢と消えました。
緒戦のスイス戦後と第2戦のデンマーク戦後にマーク・マホン監督は次のように語りました。
「スイスがいる戦いで、1位になるのは正直難しいですが、日本は2位になる力あります。しかし、2試合とも試合開始早々に失点してしまいました。このようなスタートをすると、勝つのは難しかった」。
日本の試合結果と大会成績、日本選手団は次の通りです。
日本1-5スイス<1P(0-2)2P(0-2)3P(1-1)>
日本2-5デンマーク<1P(1-2)2P(0-1)3P(1-2)>
日本3-4ノルウェー<1P(2-0)2P(0-2)3P(1-2)>
スイス   3勝0分0敗 勝点6
ノルウェー 2勝0分1敗 勝点4
デンマーク 1勝0分2敗 勝点2
日本    0勝0分3敗 勝点0
団長:信田憲司、監督:マーク・マホン、コーチ:坂井寿如、ドクター:雨宮雷太、トレーナー:佐保豊、用具マネジャー:加賀昌一、GK:荻野順二(王子製紙)、菊地尚哉(コクド)、春名真仁(日光アイスバックス)、DF:アーロン・キャラー、高橋淳一(以上王子製紙)、河村正博、小堀恭之、宮内史隆、山口和良(以上コクド)、伊藤賢吾、大澤秀之(以上日本製紙クレインズ)、FW:岩田康範、奥山章文、齊藤毅、桜井邦彦(以上王子製紙)、内山朋彦、神野徹、今洋祐、鈴木貴人、藤田キヨシ、ユールクリス(以上コクド)、伊藤雅俊(日本製紙クレインズ)、石岡敏(明治大学)
集合写真
トリノ五輪最終予選に出場した日本代表チーム
【2010年バンクーバー/最終予選(グループE)3位:出場権逃す】
バンクーバーオリンピックの出場枠は12カ国あり、出場資格は
①2008世界ランキングの上位9カ国(開催国:カナダを含む)
②最終予選(3グループ)の各グループ1位の3カ国
でした。
世界ランキング22位(当時)の日本は2次予選からバンクーバーへの道がスタートしました。2008年11月6日から9日までポーランド・サノックで行われた2次予選のグループBでポーランド(21位)、イギリス(29位)、ルーマニア(27位)と対戦しました。カッコ内は世界ランキング(当時)の順位。
日本の試合結果と大会結果は次の通りです。
日本7-0ルーマニア<1P(3-0)2P(3-0)3P(1-0)>
日本2-1イギリス<1P(1-1)2P(1-0)3P(0-0)>
日本3-1ポーランド<1P(3-0)2P(0-1)3P(0-0)>
日本    3勝0敗     勝点9
ポーランド 1勝1GWS勝1敗 勝点5
イギリス  1勝1GWS敗1敗 勝点4
ルーマニア 0勝3敗     勝点0

2次予選を勝ち上がり最終予選へ進出した日本。最終予選は世界ランキング10〜18位の9カ国は自動的に進出、2次予選を勝ち上がった3カ国を加えた12カ国を3グループに分けて行われました。日本は2009年2月5日から8日まで、ドイツ・ハノーバーで行われた最終予選グループEに入り、ドイツ(10位)、スロベニア(15位)、オーストリア(16位)と対戦しました。カッコ内は世界ランキング(当時)の順位。
緒戦のドイツ戦でミスから連続失点をし敗戦。早くも自力優勝の目が消えてしまいました。第2戦のスロベニアには、リードを許す展開でしたが、粘り強く追い付き、GWSで勝利をもぎとりました。しかし、ドイツがオーストリアに勝ったため(2-1)、最終戦を前に五輪出場は夢と消えました。
坂井寿如GMの参加報告(平成20年度JOC強化委託事業 男子オリンピック最終予選 報告書より・要約)。
「現実的に男子は世界との差が大きいと言われていましたが、選手たちの能力の高さは十分戦えるレベルに来ていると感じました。もちろん、サイズの問題が大きく、身長もあるが体重の軽さなど取り組まなければならない点も多いです。また国内試合のレベルアップなしでは次のステップに進むことは難しいです。この違いがドイツ戦に表れたと思います」。
日本の試合結果と大会結果、日本選手団は次の通りです。
日本1-7ドイツ<1P(1-3)2P(0-3)3P(0-1)>
日本5-4スロベニア<1P(1-2)2P(1-2)3P(2-0)OT(0-0)GWS(1-0)>
日本2-5オーストリア<1P(0-1)2P(1-3)3P(1-1)>
ドイツ    3勝0敗      勝点9
オーストリア 1勝1OT勝1敗   勝点5
日本     1GWS勝2敗    勝点2
スロベニア  2OT・GWS敗1敗 勝点0
GM:坂井寿如、監督:マーク・マホン、コーチ:鈴木宣夫、山中武司、トレーナー:佐保豊、イクイップメント:加賀昌一、ドクター:鈴木孝治、GK:春名真仁(王子イーグルス)、菊地尚哉(SEIBUプリンスラビッツ)、石川央(日本製紙クレインズ)、DF:川島誠、キャラーアーロン、南亮太(以上王子イーグルス)、河合龍一、宮内史隆(以上SEIBUプリンスラビッツ)、大澤秀之、外崎潤(以上日本製紙クレインズ)、FW:小川将史、齊藤毅、百目木政人(以上王子イーグルス)、石岡敏、小原大輔、神野徹、今洋祐、佐藤翔、鈴木貴人、田中豪(以上SEIBUプリンスラビッツ)、飯村喜則、西脇雅仁、三谷ダーシ(以上日本製紙クレインズ)
ドイツの攻撃
ドイツ戦
試合後の整列
スロベニアに勝利
日本の攻撃
GWSの行方を見守る日本ベンチ
【2014年ソチ/1次予選(グループJ)2位:出場権逃す】
ソチオリンピックの出場枠は12カ国あり、出場資格は
①2012世界ランキングの上位9カ国(開催国:ロシアを含む)
②最終予選(3グループ)の各グループ1位の3カ国
でした。
世界ランキング22位(当時)の日本は2次予選からソチへの道がスタートしました。2012年11月9日から11日まで日光・霧降アイスアリーナで行われた2次予選のグループJでイギリス(21位)、ルーマニア(27位)、韓国(28位)と対戦しました。カッコ内は世界ランキング(当時)の順位。
地元の利を生かして2次予選突破を目論んでいた日本。緒戦のルーマニア戦、第2戦の韓国戦と勝利したものの、今一つリズムに乗れず、日本らしさがあまり見られませんでした。それでも最終戦のイギリスに勝てば、最終予選に駒を進めることはできました。しかし、最悪の結果が待っていました。第1ピリオドに連続失点。第3ピリオドに1点を返したものの、あと1点が遠く、そのままタイムアップ。まさかの2次予選敗退で、ソチオリンピックの道は途絶えました。
マーク・マホン監督の参加報告(平成24年度選手強化NF事業 実施報告書より・要約)。
「重圧のかかる状況での経験不足、重圧を乗り越える力が不足していました。アジアリーグはテレビ中継が少なく、マスコミから厳しい質問をされることも少ないです。今回はプロのアイスホッケーの試合環境ができていましたが、その環境下で選手たちは実力を発揮し勝つことができませんでした」。
日本の試合結果と大会結果、日本選手団は次の通りです。
日本2-0ルーマニア<1P(1-0)2P(0-0)3P(1-0)>
日本3-2韓国<1P(1-0)2P(1-1)3P(0-1)OT(1-0)>
日本1-2イギリス<1P(0-2)2P(0-0)3P(1-0)>
イギリス  2勝1GWS敗    勝点7
韓国    1勝1GWS勝1OT敗 勝点6
日本    1勝1OT勝1敗    勝点5
ルーマニア 0勝3敗       勝点0
GM:坂井寿如、監督:マーク・マホン、コーチ:鈴木宣夫、若林クリス、イクイップメント:オンドネル・キース、PT:中島秀之、GK:成澤優太、春名真仁(以上王子イーグルス)、福藤豊(日光アイスバックス)、DF:キャラーアーロン、芳賀陽介、橋本僚、山下敬史(以上王子イーグルス)、外崎潤、簗取慎也(以上日本製紙クレインズ)、山田虎太朗(早稲田大学)、FW:久慈修平、齊藤毅、齊藤哲也、佐藤翔、寺尾裕道、百目木政人、三田村康平(以上王子イーグルス)、田中豪、山下拓郎(以上東北フリーブレイズ)、上野拓紀(日光アイスバックス)、小原大輔、佐藤博史、西脇雅仁(以上日本製紙クレインズ)
集合写真
ソチ五輪一次予選グループJに出場した日本代表チーム
【2018年平昌/最終予選(グループE)4位:出場権逃す】
平昌オリンピックの出場枠は12カ国あり、出場資格は
①開催国:韓国
②2015世界ランキングの上位8カ国
③最終予選(3グループ)の各グループ1位の3カ国
でした。
世界ランキング20位(当時)の日本は2次予選から平昌への道がスタートしました。2016年2月11日から14日まで札幌・月寒体育館で行われた2次予選のグループJでウクライナ(21位)、クロアチア(26位)、ルーマニア(27位)と対戦しました。カッコ内は世界ランキング(当時)の順位。
日本の試合結果と大会結果は次の通りです。
日本3-0クロアチア<1P(0-0)2P(1-0)3P(2-0)>
日本7-0ルーマニア<1P(0-0)2P(5-0)3P(2-0)>
日本2-1ウクライナ<1P(0-0)2P(0-0)3P(2-1)>
日本    3勝0敗 勝点9
ウクライナ 2勝1敗 勝点6
クロアチア 1勝2敗 勝点3
ルーマニア 0勝3敗 勝点0

地元札幌で行われた2次予選を勝ち上がり最終予選へ進出した日本。最終予選は世界ランキング9〜17位の9カ国は自動的に進出、2次予選を勝ち上がった3カ国を加えた12カ国を3グループに分けて行われました。日本は2016年9月1日から4日まで、ラトビア・リガで行われた最終予選グループEに入り、ラトビア(10位)、ドイツ(13位)、オーストリア(16位)と対戦しました。カッコ内は世界ランキング(当時)の順位。
日本の対戦相手はいずれも世界ランキング上位の格上であり、厳しい戦いが予想されました。緒戦はドイツに攻められ、日本も必死に守りましたが、0-5で敗れました。第2戦のラトビア戦はドイツ戦とは異なり、粘り強い守りで勝機を伺いました。しかし、善戦及ばず1-3の惜敗。この結果、最終戦を待たずにオリンピック出場を逃しました。
ドイツ戦後のグレゴリー・トムソン監督コメント(日ア連フェイスブック2016年9月2日より・要約)
「試合全体を通して自陣からパックを出すことがなかなかできず苦しい展開だった。格上のドイツを相手にある程度予想はしていたが、我々のペナルティーも多く自分たちのリズムでプレーすることができなかった。気持ちを新たに明日のゲームに臨みたい」
日本の試合結果と大会結果は次の通りです。
日本0-5ドイツ<1P(0-2)2P(0-3)3P(0-0)>
日本1-3ラトビア<1P(0-0)2P(0-1)3P(1-2)>
日本0-3オーストリア<1P(0-1)2P(0-0)3P(0-2)>
ドイツ    3勝0敗 勝点9
ラトビア   2勝1敗 勝点6
オーストリア 1勝2敗 勝点3
日本     0勝3敗 勝点0
GM:中嶋正敬、監督:グレゴリー・トムソン、コーチ:鈴木貴人、春名真仁、ビデオコーチ:大北照彦、トレーナー:佐保豊、山本周平、用具マネジャー:キース・オンドネル、ドクター:石田浩之、GK:小野田拓人、成澤優太(以上王子イーグルス)、福藤豊(日光アイスバックス)、DF:佐々木一正、芳賀陽介、橋本僚、山下敬史、山田虎太朗(以上王子イーグルス)、熊谷豪士(東北フリーブレイズ)、羽刕銘(日本製紙クレインズ)、簑島圭悟(中央大学)、FW:小原大輔、久慈修平、高橋聖二、三田村康平(以上王子イーグルス)、河合卓真、田中豪、山下拓郎(以上東北フリーブレイズ)、斉藤毅、(日光アイスバックス)、上野拓紀、高木健太、西脇雅仁(以上日本製紙クレインズ)、大澤勇斗、三浦優希
【2022年北京/3次予選(グループG)2位:出場権逃す】
北京オリンピックの出場枠は12カ国あり、出場資格は
①開催国:中国
②2019世界ランキングの上位8カ国
③最終予選(3グループ)の各グループ1位の3カ国
でした。
世界ランキング23位(当時)の日本は3次予選から北京への道がスタートしました。2020年2月6日から9日までスロベニア・イェセニツェで行われた3次予選のグループGでスロベニア(18位)、リトアニア(24位)、クロアチア(29位)と対戦しました。カッコ内は世界ランキング(当時)の順位。
緒戦のクロアチア、第2戦のリトアニアと攻守ともに良い状態で勝利し(2試合連続完封)、最終戦のスロベニア戦に臨んだ日本。日本が先制したものの第2ピリオド以降はスロベニアが牙を剥き、日本ゴールを攻め立てました。なんとか1失点で踏みとどまり1−1で第2ピリオドを終えましたが、シュート数はスロベニア18本に対して日本はゼロ。一方的に攻められた第2ピリオドでした。第3ピリオドは完全にスロベニアペースとなり日本は連続失点。結果的に2-6で敗れ、2大会ぶりに最終予選進出を逃しました。
岩本裕司監督の参加報告(2020オリンピック予選スロベニア 報告書より・要約)。
「オリンピックへの思い、チームの意義目標『心を動かす存在になる』が明確になり、チームの一体感や規律を意識し、システムをまっとうして同じ方向へ戦うチームができたと感じました。その完成度が高かっただけに予選を突破できず、非常に悔しい思いです。その反面、力を出し切って勝てなかったので課題が明確になった点では今後へつながる戦いだったと思います」。
日本の試合結果と大会結果、日本選手団は次の通りです。
日本9-0クロアチア<1P(4-0)2P(2-0)3P(3-0)>
日本4-0リトアニア<1P(4-0)2P(0-0)3P(0-0)>
日本2-6スロベニア<1P(1-0)2P(0-1)3P(1-5)>
スロベニア 3勝0敗 勝点9
日本    2勝1敗 勝点6
リトアニア 1勝2敗 勝点3
クロアチア 0勝3敗 勝点0
チームリーダー:中嶋正敬、監督:岩本裕司、コーチ:大北照彦、外崎潤、GKコーチ:春名真仁、トレーナー:金子知広、前田勇磨、ドクター:島本則道、イクイップメント:吉田年伸、マネジャー:細谷妙子、GK:成澤優太(王子イーグルス)、古川駿(東北フリーブレイズ))、福藤豊(日光アイスバックス)、DF:橋本僚、山田虎太朗(以上王子イーグルス)、河合龍一(東北フリーブレイズ))、大津夕聖、佐藤大翔(以上日光アイスバックス)、蓑島圭悟、梁取慎也(以上ひがし北海道クレインズ)、FW:大澤勇斗、越後智哉、高木健太、高橋聖二、中島彰吾(以上王子イーグルス)、寺尾裕道、古橋真来(以上日光アイスバックス)、池田一騎、入倉大雅、上野拓紀、大津晃介(以上ひがし北海道クレインズ)、平野裕志朗(ウィーリング・ネイラーズ)、佐藤航平(ニューハンプシャー大学)
集合写真
北京五輪3次予選グループGに出場した日本代表チーム

<主な参考文献>
日本アイスホッケー年鑑 昭和57-58年 第2号、昭和61年-62年 第6号、平成2年-3年 第10号、平成5年-6年 第13号、平成11年-12年 第19号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
平成20年度JOC強化委託事業 男子オリンピック最終予選 報告書
平成24年度選手強化NF事業 実施報告書
2020オリンピック予選スロベニア 報告書
毎日新聞 1967年3月28日付(発行:毎日新聞社)
読売新聞 1967年3月29日付(発行:読売新聞社)
スポーツ・マガジン5月号「アイスホッケー 75No.3」(発行:ベースボール・マガジン社)
アイスホッケー・マガジン 1979-1980 No.1、1982-1983 No.3、1986-1987 No.5、1999年11月号、2005年4月号(発行:ベースボール・マガジン社)

ページトップへ