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レジェンド・インタビュー_Vol.3 久保英恵_1度の引退を乗り越えて「オリンピック出場」の夢を実現
日本女子代表はミラノ・コルティナオリンピックで4大会連続5回目の出場を果たした。現在ではオリンピック出場が当たり前かのように思われるが、開催国として出場した長野オリンピック以後、オリンピック出場はままならず、世界の列強の前に涙を飲み続けた。その間、オリンピック出場の夢がかなわず、現役生活に別れを告げた選手も少なくない。
久保英恵さんも小学校低学年の時に「オリンピック出場」を夢に挙げていたものの、夢の実現は容易ではなく、一度は現役引退し、オリンピック出場は夢のままで終わったかと思われた。しかし、夢の実現のため現役復帰し、世界の列強を打ち破り、オリンピック出場を夢では終わらせなかった。
久保さんにオリンピック出場への道のりや思いなどを伺った。
<写真:平昌オリンピックにて(本人提供)>
ミラノ・コルティナオリンピックは東京のスタジオから
2026年2月、ミラノ・コルティナオリンピックが開催。2014年のソチ大会から4大会連続出場(通算5回目)を果たした日本女子代表は、1次リーグでフランス、ドイツ、イタリア、スウェーデンと対戦する。
現地からの実況放送では大澤ちほさんが解説を担う。久保さんは日本戦を中継するテレビ局のスタジオ解説のオファーがあり、現地には足を運ばず、東京のスタジオから日本の戦いを見ることになった。
ミラノ・コルティナオリンピックではテレビ解説としてオリンピックにかかわる久保さん。オリンピック出場を夢見たのは早かった。小学校低学年の頃、女子アイスホッケーはまだオリンピックの正式種目になっていなかったが、この時、すでに「オリンピック出場」を将来の夢として挙げていた。
その後、1991年に長野でのオリンピック開催が決定。女子アイスホッケーも正式種目になった。日本は開催国としてオリンピックに出場できたため、代表入りを果たせば夢が実現できた。しかし、代表メンバーに選ばれず、夢の実現はかなわなかった。
長野オリンピック以後、2022年に現役引退するまでに久保さんは、オリンピックには2014年ソチ大会、2018年平昌大会、2022年北京大会と3大会連続出場を果たした。世界選手権にも13回出場するなど、日本の中心選手として活躍した。
日本を代表するプレーヤーであった久保さんだが、順風満帆でオリンピック出場を果たしたわけではない。オリンピック出場には険しく、厳しい道のりが待っていた。
代表入りは難しいと思っていた長野オリンピック
1982年、苫小牧に生まれた久保さん。兄の影響を受け、4歳からアイスホッケーを始めた。緑小学校では3年生まで神國朝先生の指導を受けた。小学校までは男女混合チームでプレーした。男子児童にも負けないプレーで、緑小でのレギュラーだけではなく選抜チームのメンバーにも選ばれていた。
ところで、神先生は赴任先の小学校で教師をする傍ら、アイスホッケーも指導。教え子には蝦名元樹氏(元コクド)、小堀恭之氏(元西武鉄道)、平野克典氏、山中武司氏(ともに元王子製紙)、土田英二氏(元日光アイスバックス)、佐藤雅子氏(元六花亭ベアーズ)ら日本代表やトップリーグなどで活躍した多くの選手がいる。その実績が評価されて2023年の日本アイスホッケー連盟創設50周年記念式典で、「特別功労賞」を受賞した。日本の名伯楽の一人と言えよう。
久保 家が緑小学校の目の前で、校庭に水を撒いてリンクを作るじゃないですか。リンク脇のプレハブ小屋の前にも水を撒いたので、お父さんについて行ってそこで3歳ぐらいから滑り始めました。いずみ幼稚園にもアイスホッケークラブがあったので、そこでアイスホッケーを始めました。
小学生までは男女混合チームで選抜チームも男女一緒でした。遠征に女の子が行く場合は、コーチ陣や保護者は別の控室を用意するなど配慮してもらっていました。選抜チームでは、北海道内は参加OKでしたが、道外の大会には行かせてもらえませんでした。選抜メンバーであっても道外の大会にはほとんど行っていないので、悔しかったですね。正直、私は同じ控室で良いのにと思っていました(笑)。
苫小牧で強豪チームであった緑小学校だが、久保さんが6年生になった時、大きな変化が起こった。新たに明野小学校ができたのだ。新しい学校ができたことにより、新人戦まで一緒にセットを組んだ一つ目のチームメート4人が明野小に移った。直前の新人戦でも優勝していた緑小学校。主力メンバーが移ったこともあり、周りの学校からは高い評価は受けず、苦しい戦いが予想された。
<写真:緑小学校時代(左から2人目が久保さん)本人提供>
久保 一人だけ残されて、絶望的でしたね。新人戦で優勝するほど人がそろっていて、強かったです。ほとんどの選手が明野小に行ったので、明野小が強くなりましたね。その時に、自分が頑張って決めないといけないと思ったのを覚えています。
緑小は強かったけど、人がいなくなったので、「どうせ弱いよな」といった感じです。ウチらは馬鹿にされていました。それがむかついて……(笑)。5年生にうまい子が残っていたので、最後の大会では結構いいところまで勝ち進んで、見返してやりました。優勝はできなかったですが、主力がいなくなった中で、最後にはPS勝ちができたので、満足感はありました。
緑小学校を卒業し、中学生になると、男女混合チームはなく、女子チームでのプレーとなる。久保さんは、小学校時代から練習に参加させてもらっていた苫小牧の名門・岩倉ペリグリンの門をたたいた。
小学校時代は先頭を切ってプレーをしていたのだが、スピードもシュートもこれまでとはレベルの違いを実感した。それでも3つ目などに起用され、試合出場を果たした。
久保 通用すると思っていたが大人のレベルが違いすぎて、全然ダメだなと思いました。監督の板橋さん(注1)に目にかけてもらって、「とりあえず自分の好きなようにプレーして良い。特にアタッキングゾーンだったら好きなようにやれ」と自由にさせてもらっていました。ダメなプレーでも、大目に見てもらっていました(笑)。
システムとか全然分からなかったので、コーナーにパックがいったらセンターはサポートに行く。真ん中に入ってきた選手にはついていくなど、基礎的な守りのシステムは板橋さんに叩き込まれました。
また、足も遅かったので、ダッシュでは板橋さんから追いかけられ、喝を入れられていました。
注1 板橋亨(いたばしとおる):1965-1966シーズンから1974-1975シーズンまで岩倉組でプレーし、日本代表としてオリンピックに1回(1968年グルノーブル)、世界選手権に2回出場した。指導者としては岩倉ペリグリンの監督などを務め、長野オリンピックでは日本女子代表の監督として指揮を振るった。
岩倉ペリグリンに入って2年目の中学2年の時、日本代表に初めて選出されカナダ遠征に参加した。久保さんは、当初はメンバー入りしていなかったが、ケガで欠員が出たための緊急招集であった。長野オリンピックを翌年に控えた時期での代表入り。本人の思いとは関係なく、メディアからは「最年少でオリンピック出場か?」と俄然、注目された。
久保 授業を受けている時でした。校長室に呼ばれて……。何か悪いことでもしたかなと思いましたよ(笑)。パスポートを急いで作らないと遠征に間に合わないということで、親が学校に来て手続をした記憶があります。
この時は初代表で急に呼ばれたので、何を用意すればいいのか分からない中での遠征でした。試合には大差のついたカナダ戦とか出させてもらいました。ついて行った感じであまり覚えていません。
私自身は内心、代表レベルに達していないと思っていました。遠征には選手を多めに連れて行っていたので30名ぐらいの選手がいる中で、練習試合でも出られない選手がたくさん出るわけです。私も出られないことが多かったのですが、他のボーダーラインの人たちは出られないと悔しくて泣いていました。それを見て私はちょっと場違いかなと思ったこともありました。私は経験として、楽しみで行っている感じで、絶対に代表メンバーに入ろうという感じではなかったですね。選ばれたらいいなぁくらいでした。
国内の試合ではある程度、結果を残していたので、取材はたくさん来ましたし、そうなるだろうとは思っていました。でも海外遠征での試合で、通用していたかと言えば、できていないのが分かっていたので、メディアから質問されたら「(オリンピックに)行きたいです」と言ってはいましたが、内心「絶対行けないな」と思っていました。
1998年2月、長野オリンピック開催。久保さんは代表枠から漏れた。最初のオリンピックチャレンジは想定内の結果でもあった。
久保 悔しさはあまりなかったですかね。親に「観に行こう」と言って、高校の入試面接後、そのまま長野に向かいました(当時15歳)。試合を見ただけではなく、今まで一緒にやっていたので、今だったら無理だと思いますが、手続きをしてもらい選手村に入れさせてもらいました。選手村では、自販機は押し放題。ハンバーガーは食べ放題。子どもでしたから、それに感動しました(笑)。
試合を客観的に見て、大きな会場で注目された中で、やってみたいなとは思いました。
絶望的になったソルトレークシティオリンピック最終予選
長野オリンピックが終わり、日本代表メンバーも新旧交代が進んだ。久保さんは主力メンバーとして日本代表入りを果たした。
長野オリンピック前はトップディビジョン(Aプール)しかなかった女子の世界選手権。長野オリンピック後は男子と同様にA・Bにランク分けして行われた。1999年の世界女子選手権、日本はBプールが戦いの場となった。日本は優勝し、翌シーズンはトップディビジョン(Aプール)入りを果たした。その後、AプールとBプールを行ったり来たりの状況が続いた。また、オリンピックの出場権は最終予選で切符をかけての戦いを繰り広げた。
1998-1999シーズンから2010-2011シーズンまでの世界女子選手権とオリンピック最終予選の戦いは次の通り。
1999世界女子選手権Bプール:1位(Aプールへ昇格)
2000世界女子選手権Aプール:8位(Bプールへ降格)
2001ソルトレークシティオリンピック最終予選(4カ国中2位までが出場権獲得):4位
2001世界女子選手権ディビジョン1(旧Bプール):2位
2003世界女子選手権ディビジョン1:1位(トップディビジョンへ昇格)
2004世界女子選手権(トップディビジョン・旧Aプール):9位(ディビジョン1へ降格)
2004トリノオリンピック最終予選(3カ国中1位が出場権獲得):2位
2005世界女子選手権ディビジョン1:2位
2007世界女子選手権ディビジョン1:1位(トップディビジョンへ昇格)
2008バンクーバーオリンピック最終予選(4カ国中1位が出場権獲得):2位
2008世界女子選手権:7位(トップディビジョン残留)
2009世界女子選手権:8位(ディビジョン1へ降格)
2011世界女子選手権ディビジョン1:東日本大震災のため不参加(ディビジョン1残留)
1999世界女子選手権Bプール。日本は予選リーグを3戦全勝で首位通過。準決勝のチェコ戦は2-1の守り勝ち。決勝ではノルウェーを7-1と圧勝し、優勝とAプール昇格を決めた。
2000世界女子選手権Aプール。6位までに入るとソルトレークシティオリンピックの出場権を獲得できたが、中国、ロシア、ドイツの後塵を拝し最下位に終わり、オリンピックの出場権は最終予選へ持ち越すともに、Bプールへ降格となった。
迎えたソルトレークシティオリンピック最終予選。参加4カ国の前シーズン(1999-2000)の世界女子選手権の順位はドイツ(A7位)、日本(A8位)、カザフスタン(B1位)、スイス(B2位)の順であった。2位までが出場権が獲得でき、日本の勝機は十分にあった。しかし、結果はドイツとスイスに引き分け、カザフスタンに敗戦の2分1敗。まさかの4位に終わり、ソルトレークシティ行きの切符は夢と消えた。
久保 高校になると先輩に連れて行ってもらってウエイトはやっていました。学校が終わったら「トレーニングに行くよ」と迎えに来てもらい、帰りにご飯を食べる感じでした。トレーニングがあまり好きではなかったので先輩には感謝ですね。
最初の(1999)世界女子選手権(Bプール)で優勝し、BプールからAプールにあっさり上がれて、こんな簡単に優勝できるものなんだと思いました。「日本が強いのか、周りのレベル低いのか」。無知ですよね(笑)。
トップディビジョンでは足下に及ばない感じでした(笑)。私は足が速いわけではなく、スピードが全然違いました。
国内では「優勝」ばかりでしたので、私はついているなぁと思っていました。ペリグリンでも全日本女子選手権や全道選手権の連覇にかかわっていました。
ペリグリンにいる時は、周りが自信なさげにプレーをしていると「自信を持ってやっていいよ。フォローはするから」と言っていました。後々振り返るとそれがあまり良くなかったと思っています。私が全部フォローしていたら、その人の成長につながらなかったと反省しています。自分一人ではどうにもなりませんし、全体の底上げをして、レベルアップしなければ難しいと思いました。
ソルトレークシティオリンピック最終予選は勝てると思っていました(当時18歳)。トップディビジョンでは上位チームとは力の差がありましたが、上位以外やBプールのチームには勝てていたので、勝てると思っていました。しかも上位2チームが行けるので……。勝てると見込んだ相手(カザフスタン)に負けたんですよね。またオリンピックは遠ざかったと思いました。何のためにアイスホッケーをやってきたのだろうと絶望的になった気がします。
やめてもいいと思ったトリノオリンピック最終予選
ソルトレークシティオリンピックの出場権を逃し、トリノオリンピックに向け日本女子代表は若手主体の編成となった。再出発となった2001世界女子選手権ディビジョン1では2位に終わり、トップディビジョン昇格はままならなかった。だが2003世界女子選手権ディビジョン1では宿敵・カザフスタンに勝利し優勝。トップディビジョンへの昇格を果たした。
そして、迎えたトリノオリンピック最終予選。ロシア、日本、チェコの3カ国で1枚の切符を争った。日本とロシアはともにチェコに勝ち、直接対決が最終決戦となった。対チェコ戦の結果から、日本は勝てばもちろんだが、引き分けでもトリノ行きの切符を手にすることはできた。しかし、結果はパワープレーのチャンスを生かしきれず、1点に泣いた。
久保 トリノオリンピック最終予選のロシア戦、1点を追った終盤に5人対3人のパワープレーのチャンスがあって、私も氷上にいました(当時21歳)。リバウンドがすごくいいところに出てきたのですが、決定的なチャンスでシュートが外れたのです。試合が終わった後、アイスホッケーやりたいとは思いませんでした。アイスホッケーをやっていてもしょうがない、やめてもいいとまで思いました。責任を感じました。
(その後、オリンピックに)出場した今だからこそ言えることなのですが、当時を振り返ると、日本女子代表はAプールとBプールを行ったり来たりしていましたが、私を含めて選手たちはオリンピックに行ける心構えではなく、(オリンピックに出られる)アスリートではなかったような気がします。個々で頑張っていた面もありましたが、チームとして見た時、オリンピックに行けるようなチームであっただろうか。個々の力も大事ですが、チーム力も大事になってきます。
長野の時は開催国でしたので出られましたが、その後は予選を勝ち抜かなければなりません。経験ですよね。勝ち抜く力もないし、勝ち切る試合の運び方もまだまだだと思いました。技術も大事ですが、勝たなきゃいけないというタイトな試合で出し切れるかが勝敗を分けると思いました。だから経験ですよね。
トリノオリンピック予選が行われた2004-2005シーズン。最終予選後の2005年3月に行われた世界女子選手権ディビジョン1に出場した日本。トップディビジョンへの昇格を目指したが、スイスに敗れ2位に終わり、昇格はできなかった。久保さんも日本代表メンバーとして出場したが、この大会を最後に、数シーズンにわたって「久保英恵」の名前は日本女子代表メンバーから消えた。
2005-2006シーズン、久保さんはプレーの場を日本ではなくカナダWNHLのチーム「Oakville Ice(オークビル・アイス)」に求めた。WNHLでのプレーは1シーズン限りで日本へ帰国した。
帰国後の久保さんには大きな選択が待ち受けていた。カナダへ行く前に所属していた岩倉ペリグリンをプレーの場にはすることはなかったのだ。「アイスホッケーをやめるか、違うチームに移るか」の選択を迫られた。親からは「他のチームに移るくらいなら、やめてしまえ」とも言われた。久保さんは「アイスホッケーをやめる」気持ちに傾いていた。
その時、SEIBUプリンセスラビッツ(旧・コクドレディース)から「ウチでやらないか」と声がかかった。その後、様々な手続きなどを経て、SEIBUプリンセスラビッツ入りを果たした。
2006-2007シーズンからチームを移籍した代償は大きかった。その後、日本代表入りすることはなかった。2008年11月に行われたバンクーバーオリンピック最終予選にも出場していない。オリンピック予選戦で日本女子代表は敗れ、オリンピックの切符を手にすることはできなかった。この結果は久保さんの(最初の)引退への決意にもかかわっていた。
また、代表入りがなかったことと合わせるかのように、全日本女子選手権で活躍してもベスト6などの表彰を受けることもほとんどなくなった。
久保 SEIBUに移った時、3年頑張れば代表に戻れるかなと思ってプレーをしていました。親にも、「100人が全員納得することはないけど、99人がプレーを見て納得すれば、(結果を)覆すことができる。結果を出し続けろ」と言われて頑張ったのですが、選ばれなかったので選手をやめることを決意しました。
2008年のバンクーバーオリンピック最終予選にもまだ現役でしたけど出ていません(当時25歳)。そこで、オリンピック出場を決めてくれれば、もしかしたら(オリンピックに)出られるかもしれないと思っていたので、(現役を)続けようと思っていました。でも負けたら、次のオリンピックまで4年ですからね。3年頑張って結果を残しても選ばれなかった。さらに4年は絶対無理と思いましたし、アイスホッケーも嫌いにもなっていましたので、引退を決意しました。
(2008-2009シーズンに行われた)第28回全日本女子選手権ではMVPに選ばれ、その翌シーズンにプレーしたのを最後に選手を引退しました。恩返しと思い1年だけ残ってSEIBUのコーチをやり、その後、実家に帰りました。苫小牧に戻って、子どもたちに教えることはしていましたが、アイスホッケーは絶対やらないと決めていました。その時、メル(若林)さんが訪れたわけです。
出場して終わりではなかったソチオリンピック
苫小牧で生活していたある日、連盟の強化担当副会長のメル若林(仁)氏(注2)が久保さんを訪ねて来た。訪問理由は久保さんの現役復帰の説得だった。「無理です」と固辞したが、若林副会長は何度も足を運んだ。「オリンピックに挑戦しないか。オリンピックに連れて行ってくれ。そのためには英恵が必要だ」。若林副会長の説得は続いた。また久保さんも代表チームの練習を見る機会もあった。
もちろん、現役復帰をしても代表入りが約束されているわけではない。それでも、選手たちに久保さんを復帰させてしまったことに焦ってもらいたい気持ちもあり、久保さんは現役復帰を決めた。
2011-2012シーズンに現役復帰をし、そのシーズンから日本代表入りを果たした。久保さんにとってオリンピックへの道の幕が再び開いた。
現役復帰した2011-2012シーズンから現役引退(2度目)する2021-2022シーズンまでの世界女子選手権とオリンピック最終予選、そしてオリンピックの戦いは次の通り。
2012世界女子選手権ディビジョン1:3位
2013ソチオリンピック最終予選(4カ国中1位が出場権獲得):1位(出場権獲得)
2013世界女子選手権ディビジョン1:1位(トップディビジョンへ昇格)
2014ソチオリンピック:7位(当初は8位。ロシアが失格のため7位に繰り上がる)
2015世界女子選手権:7位
2016世界女子選手権:8位(ディビジョン1へ降格)
2017平昌オリンピック最終予選(4カ国中1位が出場権獲得):1位(出場権獲得)
2017世界女子選手権ディビジョン1:1位(トップディビジョンへ昇格)
2018平昌オリンピック:6位
2019世界女子選手権:8位(トップディビジョンが8カ国から10カ国に)
2020世界女子選手権:コロナのため未開催
2021世界女子選手権:6位(ワールドランキング6位のため最終予選を経ず、オリンピック出場権獲得)
2022北京オリンピック:6位(大会終了後、久保さんはこのシーズンで引退)
注2 若林メル仁(わかばやしめるひとし):日系カナダ人として来日し、第2回日本リーグから西武鉄道、第7回日本リーグからは国土計画でプレー。日本リーグでは西武時代に2回、国土時代に2回の優勝に貢献。第13回日本リーグで引退するまで118試合152ゴール97アシスト249ポイントをマークし、MVPに1回、ベスト6に5回選出され、得点王を3回、アシスト王を1回、ポイント王を3回獲得した。また、コクド(国土計画時代を含む)の監督としては、レギュラーリーグで通算218勝、優勝4回(ともに歴代2位)の成績を残した。日本代表監督としては、1980年のレークプラシッドオリンピックや1979世界選手権Bプールなどで指揮を振るった。2011年からは日本アイスホッケー連盟の強化本部長を務め、日本女子代表のソチオリンピック出場に貢献した。2023年にご逝去、享年80歳。
久保 メルさんとはカナダ留学中に接点があり、お世話になりました。その頃から気にかけてくれていて、日本に帰ってきた時に「なぜ英恵は代表ではないのだ」と思ったらしいのです。それで声をかけてもらいました。
代表チームの練習も何回か見ましたが、正直なところ、オリンピックに行けるようなチームではない、このままでは行けないなと感じました。
復帰したシーズンの9月ぐらいからチームに合流しスタートしたのですが、1年半、プレーをしていなかったので、パスもシュートも全然ダメでした。またウエイトも重りが全然持てなくなっていて、チームメートに笑われていました。復帰したもののかなり厳しい状況でした。代表入りのレベルまでは戻っていないと思いましたね。でも、代表入りして世界女子選手権に行きました。結局、自分のプレーもできず、がむしゃらに走るくらいしかできませんでした。飯塚(祐司)監督は、「これから戻って来るだろう」と大目に見てくれたのではないでしょうかね。
ソチオリンピック出場権をかけた最終予選は2013年2月、日本、デンマーク、ノルウェー、スロバキアが参加して行われた。1位のみがソチ行きの切符が手にできた。初戦のノルウェー戦、2ピリ途中まで0-3とリードを許し、敗色濃厚の危機に立たされた。しかし、ここから日本が猛攻、大逆転で白星スタートを飾った。続くスロバキア戦はGWSの末に敗れたが、貴重な勝ち点1をゲット。そして迎えた最終デンマーク戦。日本は5-0の完勝で、ソチオリンピック出場権を獲得した。
開催国として出場した長野オリンピック以来の出場となったが、実力で勝ち取った初のオリンピックとなった。現役に復帰して1年少々、もちろん悲願達成の場に久保さんはいた。
久保 とにかく頑張って(自分の状態を)間に合わせました。でも初戦のノルウェー戦は絶望的にやばかった。2ピリの途中まで0-3。これは行けないパターンかと、頭をよぎりました。
最後に勝って整列した時、まず夢じゃないよね? と思いました。本当に行けるのだ! と感じながら整列した時に、今までかかわってきた家族をはじめ、メルさんやたくさんの方に支えられて私はこの場にいると思ったら、いろんな人の顔が浮かんできて、涙が出てきました。
2014年2月、ソチオリンピック開催。1次リーグで日本はスウェーデン、ロシア、ドイツと対戦、3戦全敗で戦いを終えた。久保さんも「オリンピック出場」という目標を達成し、2度目の引退も考えた。しかし、現役続行を選択した。オリンピックで満足できるパフォーマンスができなかったからであった。
久保 試合ではあまりオリンピックという感覚にはなりませんでした(当時31歳)。オリンピックに来たなと思ったのは開会式でした。やっとこられたと思いました。
オリンピックに出るために復帰したので、ソチオリンピックには出ることはできましたし、メルさんへの恩返しもできたので、これでやめようとも思っていました。
でも最終予選を突破して勝ち進んできた今の日本チームは最高のパフォーマンスができると臨んだオリンピックで1勝もできず、何もできなかった自分にも悔しさしか残らなかったです。満足できるプレーもできていないし、もっとさらにレベルアップしてもう一度この舞台で戦いたいと思い、次のオリンピックを目指すことにしました。オリンピックは出て終わりではなかった。
自分たちが最高のパフォーマンスで戦っても、他のチームはそれ以上に力を付けていました。どの国もオリンピックにはしっかり仕上げて勝ちに来ているのを感じました。
カナダ留学で感じていたものの一つでした。海外の選手は勝ち切るところを知っています。試合の作り方を分かっているのです。本当にプロだなと思いました。
アイスホッケーに集中して臨んだ平昌オリンピック
引退を選択せず、現役続行の道を選んだ久保さん。次なるターゲットはもちろん2018平昌オリンピック。それも出場するだけではない。満足できるプレーをすることが加わった。
話は前後するが、生活環境も現役復帰後はそれ以前とは違っていた。企業と現役トップアスリートをマッチングするJOCの就職支援制度「アスナビ」を活用し、ソチオリンピック出場が決まった2013年10月、太陽生命に就職した。
久保 太陽生命さんから「ウチに来ないか」と言ってもらいました。それからアイスホッケーに集中できる環境ができました。出勤もトレーニングも、自分でスケジュールを組み、アイスホッケー中心の生活が始まりました。
ソチオリンピック後の4年間は、人生で一番トレーニングしましたね。日本代表のチームとしても今まで以上にきつく厳しかったです。プラスアルファは自分でもジムに行って、トレーナーに見てもらってやっていました。あまりトレーニングしない私が、一生分やりました(笑)。一番仕上がった状態で平昌に臨みました。
満足できるプレーを目指した平昌オリンピック。これまで同様、最終予選が平昌オリンピックの出場権を得る場となった。最終予選の決戦の場は地元・苫小牧であった。3,000人以上のファンが足を運んだ。日本は地元の声援をバックに3戦全勝で平昌オリンピック出場切符を獲得した。ちなみに日本勢として平昌オリンピック出場決定の第1号だった。
久保 アイスホッケーをやっていて一番良かったのは苫小牧での最終予選でした。観客が3,000人以上。これまで、こんなに大入りの状態でプレーすることはほとんどありません。他の選手は緊張したかもしれませんが、私はアイスホッケーに対して緊張は一切しないので楽しめました。その環境を今の選手たちにも味わってもらいたいですね。
地元苫小牧での最終予選で勝利し、再びオリンピック出場を果たした。久保さん自身の状態も良かった。さらに日本代表も若手も育ちチーム状態は良好。手応えを感じていた。
そして迎えた平昌オリンピック。日本は1次リーグでスウェーデン、スイス、南北合同チームと対戦。南北合同チームを4-1で破り、オリンピックでの初勝利を挙げた。
久保 平昌オリンピックは(当時35歳)、準備段階で早く試合がしたいとうずうずしていましたね。若手も育ち、みんなが成長していて、チームが良い状態で、準備ができていました。
南北合同チームに勝って1勝しましたが、南北合同チームに勝つことが目標ではなく、決勝トーナメントに行くことが目標であり、応援してくださる方は1勝できたと喜んでくれましたが、まだまだこれからだと思っていました。
ソチオリンピックの時は初めての出場だったので、出たことに満足していた部分もあり、不甲斐ない結果でした。
でも平昌オリンピックは勝つために準備し、選手村に入ってからの過ごし方やトレーニングなど調整はしっかりできていました。ソチオリンピックの時とは違って、チームとして落ち着いて試合に臨むことができたと思います。でも、結果としてはオリンピックで勝ち切ることができず、良いところまでは行くけど……。決勝トーナメントまで行けなかったです。
「体力の限界」を感じた中での北京オリンピック
平昌オリンピックが終了。久保さんの脳裏には「引退」の二文字がよぎった。しかし、別の答えももたげていた。
久保 平昌オリンピックでやめようと思っていたのですが、このチームならさらに強くなるのではと思っちゃうんですよ。私の力ではなくて若手が育ってきているので、さらに頑張れば勝てるのではと思うのです。
でも「オリンピックに出場したい!」と思って頑張っている若手もいるので、私が残ってその一枠に入れない選手もいるわけです。それは申し訳ないから、飯塚監督に、「私が必要だったら残してください。必要なかったら早めに切ってください」と言いました。復帰した時にオリンピックに出るため復帰したわけですから「いらない」と言われたら、アイスホッケー自体をやめる時でした。
それが監督に逆にプレッシャーだったかもしれません(笑)。そこから居座りましたね(大笑)。ノーと言われない限りは図々しいから居続けました。
現役続行を選択し、3度目のオリンピック出場を目指した。久保さんの前には、世界の列強に打ち勝つこと。年齢に伴う体力低下。さらに世界中に蔓延したコロナの猛威など、越えなければならないハードルがあった。
特にこれまでとは全く違ったのはコロナ禍での世界選手権だった。現地入りの際には大会前1週間の隔離期間が設けられた。また、トレーニングも接触が禁止されたため、各自の部屋で個々でのトレーニングが不可避となった。さらに、食事は原則、弁当であった。
久保 コロナの時は大変でした。私は自分一人でトレーニングするのが嫌いで、「一緒にやりましょう」と言ってもらってできるタイプです。でもコロナ禍は一人でやるしかない。自分の部屋でのトレーニングの動画を送るのですが、できていない時は自分でも分かるので、もう一回やるわけです。結果的にトレーナーが設定した量より多くトレーニングをやることになりました(笑)。
ワールドランキング6位であったため、最終予選を経ずに出場できた北京オリンピック。日本は1次リーグで中国には敗れたもののスウェーデン、デンマーク、チェコを破り、決勝トーナメントに進出した。だが、準々決勝でフィンランドに1-7で敗れた。この試合が久保さんのプレーヤーとしてのオリンピックラストゲームとなった。
久保 北京オリンピックではパワープレーなど要所の場面だけの出場がメインと思っていました(当時39歳)。しかし、ケガ人が出て、私が思っていた以上に出場することになりました。
後半、私もケガには悩まされましたね。トレーニングをすればケガ。体力・筋力を向上ではなく、維持するのが大変でした。アスリートが引退する時に「体力の限界」と言いますよね。「嘘つけ。年齢との戦いは嘘だ」と思っていました。でも初めて分かりました。何をやってもケガ、100%の状態でできなかったです。「体力の限界」。これって本当にあるなと思いました。
北京オリンピックは決勝トーナメントまで行けましたが、もっともっとできるチームだと、毎回オリンピックに出るたびに思います。でも、今回は決めていました「39(サンキュー)北京」を合言葉に感謝の気持ちを込めてプレーしました。北京オリンピックは仲間に連れてきてもらった感じです。チームメートに感謝です。
太陽生命では広報の仕事に従事し、連盟では女子の強化担当を担う
北京オリンピックが終了し、引退を決めた久保さん。現在では2013年のアスナビ制度によって採用された太陽生命の広報課の一員として、仕事に従事している。
アスナビ制度が導入される前、岩倉ペリグリン時代は岩倉海陸運輸の従業員として、SEIBUプリンスラビッツ時代は東伏見アイスアリーナの従業員として働く傍ら、プレーヤーとして研鑽の日々を積んだ。所属チームはプロチームや実業団チームでなかったため、プレーヤーとしての生活環境は生易しいものではなかった。これは久保さん一人に限ったものではなかった。
太陽生命で働く一方で、日本アイスホッケー連盟においては強化副委員長を務め、さらには日本女子アンダー18代表のコーチとして若手選手の指導を行っている。また未来の日本代表の子どもたちを指導している。
久保 現在は、広報部所属で広報課とPR推進課を兼務しているので、社外広報はもちろん社内広報も担当しています。入社当時からアイスホッケー教室をやりたいという言葉を実現させていただき、今では「太陽生命アイスホッケースキルアップスクール」として12年目になります。ほかにもラグビー、ゴルフ、最近ではフィギュアスケートも応援しているので、そのイベントがあれば手配や準備などを手伝っています。社内広報では社内報を作成したり、社内用のアプリの情報掲載などをしています。
以前のことになりますが、男子は企業チームでしたから、仕事としてプレーするのが当たり前。でも私たちは仕事をしながら夜にアイスホッケーをするという生活でした。一般の人から見れば、仕事の後にやる趣味と同じくらいの感覚だったと思います。
バイトをしながらアイスホッケーをやっている選手もたくさんいました。合宿や大会があるとバイトを休むため、収入が少なくなります。当たり前ですが、当時は苦労だと思っていませんでしたが、もっとアイスホッケーに集中できる環境を作ってもらえたらうれしいなとは思っていました。
オリンピックに出られるのとあわせるかのようにアスナビ制度ができて、環境が大きく変わりました。選手全員ではないですが、ほとんどの選手が会社に就職できて、待遇はそれぞれ違いましたが、太陽生命では自分でスケジュールを組み、アイスホッケーに集中できる環境になりました。練習やトレーニングだけでなく、体のケアの時間も多く取ることができ、すごく感謝しています。そんな中でもなるべく会社に行くようにはしていました。
現在、連盟では強化委員会強化副委員長(女子担当)をやらせていただきながら、女子のアンダー18カテゴリーのコーチをしています。直近だと11月のU18の海外遠征にコーチとして帯同し、コーチの勉強もしています。
ミラノ・コルティナオリンピックは東京から後輩たちの活躍を見守る久保さん。選手選考を勝ち抜き、出場枠を勝ち取った選手たちへエールを送る。さらに次世代の子たちにも思いを寄せる。
久保 まずは出場権を獲得してくれて、正直、ほっとしています。オリンピックという場所はそう簡単には出られないことを知っている分、ホッとしましたね。今後も出続けるには、オリンピックで結果を残していかなければなりません。
オリンピックが初めての選手も多いので、「今まで通りのプレーを」と言っても難しいかもしれませんが、ここまで積み上げてきたものを惜しみなく発揮して良い結果を残してもらいたいです。まずはオリンピックを楽しみながら日本らしいアイスホッケーを魅せてください。
スマイルジャパンを夢見る子どもたちには、まずはアイスホッケーを楽しむことです。楽しまないと成長もしません。できなかったことができるようになる楽しさは今の子どもの方が数倍あると思います。アイスホッケーができるようになる努力だけは怠らないでください。その中で苦しい時、辛い時もあると思うけど、その中でも楽しむことを忘れないでください。同時に、いろんな人に支えられてプレーができていることも忘れないでください。
アイスホッケーを楽しむことと感謝の気持ちを持ち続ければ、自分の夢に向かってつながっていくと思います。みなさんの未来に期待しています。
開催国として出場した長野オリンピックでは、代表入りができれば出場できた。しかし、代表入りはかなわず、出場はできなかった。その後、2回のオリンピックは最終予選に敗れ、出場は果たせなかった。バンクーバーオリンピックでは最終予選の代表入りもできなかった。一度は引退を決意したものの代表に復帰。ソチオリンピック、平昌オリンピック、北京オリンピックでは最終予選などを勝ち抜き、オリンピック出場の夢を果たした。
そして、2度目の引退。ミラノ・コルティナオリンピックではテレビ解説として、オリンピックにかかわる。
次回の2030年のフランスアルプスオリンピックを含め、久保さんが今後どのような形でオリンピックにかかわるかは、現在では分からない。だが、監督やコーチなどのスタッフの一員としてかかわる可能性は否定できない。
小学生低学年の時に夢とした「オリンピック出場」はまだ終わらない。
このインタビューは2025年11月14日に実施しました。
第1版:2026年1月14日・記